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【まとめ】『モルガルテンをめぐるものに気を付けよ!』

記事作成日:2021/07/24
最終更新日:なし

 

 本記事では、スイスのWEBサイト『SRF』内で公開されているドキュメンタリー「Hutet euch am Morgarten!(モルガルテンをめぐるものに気を付けろ!)」の内容をまとめています。

まえおき

本記事作成の動機について

 あらすじ:モルガルテンの戦いに関するドキュメンタリーがあるやん!字幕もあるやん!やったー!とかいう純真無垢の権化かわいさの爆弾軽率ゆえのタンバリン捌きみたいな軽い気持ちで観始めたら(実際は存在に気付いてからかなり長期間寝かせていましたが……)、期待してた方向とは全然違ったし、いささか現代スイス人を懐疑的な眼差しで見つめることになったのであった……。

 

 閑話休題

 当記事では、『SWI』がWEB上で公開しているドキュメンタリー「Hutet euch am Morgarten!(モルガルテンをめぐるものに気を付けろ!)」の内容を紹介するものです。というのも、当ブログの筆者は頭から最後まで字幕を翻訳しながらという観るというふうに本ドキュメンタリーを観賞しましたが、そのついでにこの作品の内容を簡単にまとめたものをこの場で紹介するという形を取るためです。稚拙な訳とはいえ、先方に無断で全文をそのまま掲載してそれで終わるということはとてもできませんので(あと、仮にそうしたところで意図がつかみにくい箇所も放置されるだけなので)、あくまでも「まとめ」という形にして内容を紹介し、ついでに参考になりそうな情報も適宜付記するというスタイルを取っています。最初に書いておきますが、A4用紙に書いた場合、80ページを超える文章量でお送りすることになってしまっております。(補足必要箇所が多すぎたんや……!)
また、私は、他人に対して何かを伝えるのに、短くキャッチーにまとめたものがよいもの、理解ができるものだとか、そういったものが「まとめである」とは考えていないというのもあり(もちろん場合にもよりますが)、本文はすごく長くなっております。とはいえ、手取り足取り基本から何から教えるということを言っているのではありません。あくまで私なりに読み手の理解を助けられるようなものを作るということを目指しているという意味になるかと思います。
 極力ただたんに引用するだけというのは避けていますが、拙訳とはいえ、引用の形で何を言っていたのかを直接掲載したほうが読み手の誤読の可能性やこちらの曲解などの可能性も劇的に減るのも確かではあるので(翻訳を通している時点でそこは避けられないのですが)、極力、引用したほうが良さそうな箇所を中心に引用処理はしています。
 もひとつついでに、読めば分かる形で適宜私の感想なども書き添えておこうかなとも思う次第です。
 また、観ていて結構いろいろ思うところの出てくるドキュメンタリー作品ですので、本作が気になる方の視聴の一助になれれば(=視聴しやすくなれれば)と思って当記事を書いてはいますが(ドキュメンタリーをご覧になった方は、よかったらどこか目に付く所で感想こぼしてくれると俺が喜ぶというやつです)、気にはなるけれどドイツ語なので視聴が難しいという方にもある程度内容が伝わるようなものになるようにも目指して本人としてはかなり丁寧なものになるように心がけて作成しております。

以降は「である調」でお送りします。

ドキュメンタリーについて

 ここで取り上げているドキュメンタリーについての概要については以下。

タイトル
Hutet euch am Morgarten!
制作年
2015
制作国
スイス
再生時間
51(※前後のCM含む)
監督
Monica Suter
ナレーション、インタビュアー
Kathrin Winzenried
字幕
Tanja Morana
動画URL
https://www.srf.ch/kultur/gesellschaft-religion/wochenende-gesellschaft/dokumentarfilm-huetet-euch-am-morgarten

 

字幕も対応しているが、現在はドイツ語のみ。

ドキュメンタリーの流れについてざっくり分類

分類

 ドキュメンタリーの本編が約50分程度あるため、ざっくりとその内容を筆者が分類したものを提示しておく。おおよそ以下のような感じで話の主題が変わっていったといえるだろう。
まとめの本文部分では以下の9項目をそれぞれまた細分化しつつ、話の流れを紹介していくことにする。

 

  1. オープニング(00:00:42~)
  2. モルガルテンの戦いと精神的国土防衛(00:01:55~)
  3. 大戦のみを重視する人々(00:25:00~)
  4. スイスの独立とEU(00:28:22~)
  5. マリニャーノの戦いと精神的国土防衛(00:32:26~)
  6. 現代の歴史へのまなざし(00:41:28~)
  7. ウィーン会議(00:43:23~)
  8. ヴァリス州(00:44:44~)
  9. スイスの現在とおわりに(00:49:46~)

本作の大前提

 本ドキュメンタリーは「モルガルテンの戦い(1315年)」や「マリニャーノの戦い(1515年)」など、いわゆるスイスの歴史の中で重要なポジションにあるものの話に重点が置かれてはいるが、歴史学などの方面からこれらの戦いがどういうものであったのかを現在の知見からまとめるようなものではない。本ドキュメンタリーが視点として置いているのは、2015年というあらゆるものの周年記念に際して「現在のスイス」もしくは「精神的国土防衛などによって造られたナショナリズムからのスイス史観」および「それらを踏まえて今後スイスはどうするべきか」といったことなのである。そのため、これらの戦いも、あくまでも現在まで続くナショナリズムとの関係というつながりで語られるに過ぎない。

 尚且つ、制作側が抱く視聴対象者の想定が基本的にドイツ語圏スイス人であるらしいことは本作を観ていてもにじみ出ている要素である(※現在のスイス全体に関わるようなナショナリズム観などに関する話をしているのに、字幕も、そして多分音声もドイツ語しか対応していない点からもそうしたことは窺い知れるだろう)。よって、ネイション観含め、ドイツ語圏スイス人たちにとっては肌身に感じられるような構成になっていると言えるものになっている(のだと思う)。そのため、ドキュメンタリー内で特に説明らしい説明もないまま話も展開するし、放送当時である2015年あたりに現地で過ごしていた人間ならば自ずと分かるような問題にも説明なく触れていたりもするのである。なんならば、「触れる」というよりも「匂わせる」程度のものすらある。他にも、政治的な問題と政治家たちなどの立ち位置などもあえて語られることはしない。そういった暗黙の了解といったものが多分に含まれているのが本ドキュメンタリー作品である。絶対これ、Maissen氏らの対談動画を観ている前提、Maissen氏の著作を読んでいる前提で話進めてますよねみたいな内容でお送りされているのだが(※この辺は何言ってるかはまとめ本文をご覧いただければ分かります)、全てはスイス人たちの暗黙知に収束しているのである(※私はどちらもとても追えず)。ぐぬぬ……

 本記事では、とても全部は補足はできないが(そしてその知識も足りないが)、最低限はそうした暗黙の了解となっている部分に関する補足も付けていくことにする。が、いちいち微細にまとめていくとこちらの仕事量が膨大且つ煩雑になりすぎる上にいよいよただでさえヤバい文章量が書籍レベルと化すため、ほとんどは参考になる記事などを紹介する程度に留める。繰り返すが、あくまでも本記事は、ざっくりとどういったドキュメンタリーであったのかが分かるようなもの、もしくは、視聴にあたっての参考資料的なポジションを目指すものである。

 

本ドキュメンタリーの背景に関連しそうな参考情報を挙げておく。

  • 『SRF』-「Die Schweiz streitet um Marignano ─ aber ohne Romandie und Tessin(公開日:2015/04/30)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトル部分を日本語訳すると、「マリニャーノにおけるスイスの衝突──ロマンディとテスィーンを無視しての」。ロマンディとはスイス西部の一部にあるフランス語圏スイスのこと。テスィーンはいわゆるティチーノ州のこと。テスィーンはそのドイツ語での読みになる。
  • 『SWI』-「Zwischen Fakten und Mythen: Von Morgarten bis zum Wiener Kongress(公開日:2015/03/17)」(※本文ドイツ語。ただし他の言語訳もいくつかある。オリジナルテキストはイタリア語版のもの)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトル部分を日本語訳すると、「事実と神話との間:モルガルテンの戦いからウィーン会議に関して」。
  • 『SRF』-「Morgarten, Marignano, Mythenbildung ─ die Schweiz im Clinch(公開日:2015/04/29)」(※映像。字幕対応なしなので私は未視聴だが、本ドキュメンタリーでも引用されている対談映像が用いられていたり、察するにかなり関係ある話はしているらしいことが伺える)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトル部分を日本語訳すると、「モルガルテンの戦い、マリニャーノの戦い、神話形成──クリンチの中にあるスイス」。クリンチとは多分、ボクシング用語のクリンチという技のことを言っているのだと思われる。転じて、「いがみ合いの中にあるスイス」程度の意味合いになるのだろう。

 

 また、本ドキュメンタリーは、広い範囲に渡るスイス史の知識をある程度有していることが前提として成り立っている(※中世~現代)。その上、繰り返すが、とにかく説明が端折られるし、視聴者が察する前提でうっすらと対象に触れるという場面が多い。だから視聴者は事前に(もしくは視聴しながらでも)関係箇所を勉強しておくことをおすすめする。とはいえ、最低限の範囲で言えば、適当なスイス史の図書が1冊くらい手元にある程度で充分かと思われる(むしろ図書よりもスキルを要する面があると思っているのであまりおすすめはしないが、ネットで調べるなどでもいいだろうが)。以下のまとめではそうしたもので事足りる範囲までをいちいちこと細かに説明はしないが、関連している事象が何であるのかということくらいは(場合によっては+αも記述しつつ)私が分かる範囲で書き添えておくので、参考にしてもらえると幸いである。

まとめ

 ここで先に前置きしておくが、例えば「シュヴィーツ州」などというように、「カントン」に当たるものをここでは仮に「州」として書いている。本当は「州」と捉えるのは問題があるのだが、日本国内においては一般的にそのように捉えておくことが一般的になっているため、ここでもそのようにしておく。「カントン・シュヴィーツ」とか、他の言い方をすると逆にややこしいと思うので……。

 

 最初に本ドキュメンタリーの要点をまとめておく。
 本ドキュメンタリーはまず、14世紀などにスイスで起きた戦いなどをこんにちにおいてどういうふうに捉えるべきかということを中心に据えている。後年(特に20世紀になって)自分たちのネイション観を形成するために神話のようなものに変じてしまったこれらの歴史をそのまま保持するか、これを考え直すか。ここではMaissen氏の騒動を核として保守派と革新派の対立を通しながらも、明らかに革新派側を優遇した番組構成でその問いと向き合っている。とはいえ、本ドキュメンタリーは全体的に中庸を狙うというよりは単純にぼやけた感じがしており、私感としては、とにかく、あらゆるトピックを通して何を伝えたいのかが汲み取りにくい構造になっている。最終的に、本ドキュメンタリーが終わった時点で、さて本作は何がしたかったのだろうかと思い返すと、本当によく分からないといったものになっている。
 次に、戦いの歴史とその記憶を引き継ぐことということにもスポットを当てているが、この辺りも極端に歪みを持った視点のものをまとめているため、いささかの気持ち悪さは禁じ得ない。戦いを通して得た平和というものだとか、平和を守ることへの固執というか、スイスという土地から出るそういった感覚は考えてみると面白いのかもしれないが、本作ではこういったところも特に深掘りはしない。
 スイス国内における現在の対立構造を過去の対立構造(※宗教改革のあたりなど)と暗に重ねていたりする点からも、本ドキュメンタリーが革新派を暗に応援している姿勢があると捉えてもいいのだろう。
 とにかく、全体的に本ドキュメンタリーはぼやけた構成をしており、結局何がしたいのかは何度目を通しても筆者には理解できなかった。以降のまとめでは随所補足等も挟みながら、本ドキュメンタリーが意図しているのだろうものについてもまとめているため、そちらを読んでいただきたい次第である。
 とはいえ、要は、現在のスイスはヨーロッパとどう付き合っていくかという局面にもあるため、旧来的な考えを保持するか、迎合するかというところにポイントがあるのだろう。その上で、ただこれを迎合するだけではスイスは瓦解する道に行くしかないという話になっているようだ。この点でスポットライトを浴びているのはもはやドイツ語圏スイスに含まれる三邦がどうであるかということではなく、西スイスにスイスの今後の進退があるのだということだろう。

オープニング(00:00:42~)

政治家と歴史家の対談Ⅰ

 本ドキュメンタリーの軸部分に当たるため、オープニングタイトルに至るまでの発言箇所を全て拙訳を引用する形で掲載しておく。政治家であるBlocher氏と歴史家であるMaissen氏との対談である。

(本ドキュメンタリー内での対談映像の引用箇所)

政治家
リュトリの誓約は一つの神話ですよ──同様に、テルだってそうだ。

 

歴史家
そのとおり。あれはスイスの歴史ではないよ。あれはメルヒェンだ。

 

政治家
神話とは、より大きくて重要な意味から発せられるものさ、とある土地のためにね。

 

(本ドキュメンタリーのナレーション)

ナレーション
強大な神話であるのか、史実に基づく出来事であるのか?
歳月を経るほどに、このことを巡ってスイスの歴史は激論が交わされるようになり(、揺れ動くばかりで)際限がなく、我々は(もうこれ以上はこの話が終わりなく続かないようにと)その落着点を知ることを望んでいました。
何がそれを取り巻く真実であるのか、何を我々はかつて学校で学んでいたのか。そして、何のためにそれは深い重要性をもっていたのか。
どのような戒めを、来るべき未来のために(我々は)案内人としたらよいのでしょうか?

 本ドキュメンタリーは、オープニングで真っ先に引用されていたこの対談がベースになっており、他の箇所でも逐一、対談シーンの一部がこまごまと引用されている。
 特に最初に引用されたこの箇所が、本ドキュメンタリーにとっての一番の核にもなっている。スイス史にとって欠かせないはずの過去の諸々は実際はどういったものであるのかという観点である。そして、政治家も歴史家もどちらも「神話であること」を肯定してはいるが、二人は同じ視点でそうした結論を述べているわけではない。
この歴史家(※Thomas Maissen氏)は「現在のスイスにとってこうしたものは神話的にしか捉えられていないし、その上で価値が付けられている」ということを批判的に意図して発言しており、この政治家は「虚実などは関係ない。あらゆる世界の神話のようにこれらはスイスの起源を語るものなのである」ということを肯定的に意図して発言しているのである。つまり、真逆といってもいい立場で表面上は同じ結論に至っているという点が引用されている箇所になっている。要は、スイスがこれまで形作ってきたナショナリズムの根幹、アイデンティティー観を批判するか肯定するかといった違いがある。
本ドキュメンタリーは現在のスイス内部で発生しているこうした対立関係と歴史認識について語るものなのである。

 また、大前提として、ドキュメンタリー放送当時は彼らのこの対談やThomas Maissen氏がスイス国内で注目されていた背景がある。発端は彼が本にしたスイス史が、主に旧来的なスイス史観を重視する人々にとっては不都合だったからこそ旋風が起こったと言えるものである(※本ドキュメンタリーでは言わなくても分かっていることとして完全に無視されているが、主に90年代くらいからすでにこうした旧来的なスイス史観に疑義を唱える研究は目立つようになっており、その都度注目されてきてもいた)。特に2015年はモルガルテンの戦いやマリニャーノの戦い等々、スイスにとっては記念の年となるものが重なっている年だったので、なおさらこの歴史家が注目されたのだろうと推測できる。

 ついでに書いておくと、本ドキュメンタリーはあくまで20世紀~現代の歴史観形成に重きを置いており、それまでにスイス国内外で発生していたスイス史観については全くと言っていいほど語ることをしないし、補足もしない。存在を無視していると言っていいほどである(ウィーン会議周りなども触れはしているのだが……)。ただしこれは歴史観の範囲のことであり、上述したように、視聴者は中世~現代に至るまでのスイス史の知識をある程度有しておく必要がある。ともかくも、その上で話を進めているのでいささかツッコミどころが出そうにも思うのだが、ここではそれはひとまず置いておいてという感じで、こうした20世紀以前の歴史観などについても本国視聴者にとっては暗黙の了解とした上で無視をしているのであるのだろう。

本ドキュメンタリーで幾度も引用されているこの対談はWEB上でも公開されている。

  • YouTube』-「Schweizer Geschichte: ein Streitgesprach」(最終アクセス日:2021/07/16)
    ※スイスの報道関係である「DIE WELTWOCHE」が公開している。収録日は2015/04/12。
    字幕対応していないため、私は視聴できていませんが、本ドキュメンタリーから窺うになかなか面白そうな対談になっていたようなので、よろしければ……。

Thomas Maissenについて:

  • スイス人とフィンランド人とのハーフ。現在はパリに拠点を置いているようである。『Geschichte der Schweiz(2010年)』あたりから積極的にスイス史に関する書籍を発表しはじめ、『Geschichte der Schweiz(2013年)』および『Schweizer Heldengeschichten ? und was dahintersteckt(2016年)』あたりから本ドキュメンタリーでも見られたような反対意見の人物との激烈な対立が見られるようになる。特にこうしたスイス史に関する研究の方面で知名度が上がっているようである。氏の名前で検索すれば、氏とスイス史に関連した記事が数多出てくる。とくに『SRF』にはモルガルテン700周年目でもある2015年の辺りに氏をゲストにした映像資料が豊富にアーカイブされている。以下に参考リンクを貼っておく。
  • Wikipedia』-「Thomas Maissen」(※ドイツ語版を貼っておく)(※最終アクセス日:2021/07/17)

タイトル

本ドキュメンタリーのタイトルが表示される。

インタビュアー(およびナレーション)は、Kathrin Winzenried。監督はMonica Suterであることが分かる。

サブタイトルも表示されるが、スイスの歴史とあなたたちの神話についてといった意味である。

Kathrin Winzenriedについて:

  • IMDb』-「Kathrin Winzenried」(※最終アクセス日:2021/07/16)
  • 『SRF DOK』には彼女が担当した長編ドキュメンタリーシリーズ「Von Helden, Haudegen und Pionieren」(※最終アクセス日:2021/07/16)などが公開されているしている。このシリーズの中には20世紀におけるヴァリス州関連のものや、ゴッタルト峠に関するものもある。

 

Monica Suterについて:

  • 『Linkedin』-「Monica Suter」(※最終アクセス日:2021/07/16)

モルガルテンの戦いと精神的国土防衛(00:01:55~)

子供への授業風景Ⅰ──シュヴィーツの役所前

 シュヴィーツにある役所前で小学生くらいの子供たちが先生に引率されて授業を受けている様子が撮影されている。一同は建物西側の壁面に描かれている絵を眺めながら話している。この壁面にはモルガルテンや永久同盟の様子が描かれており、授業の材料にしているのである。(※1)
ここで重要なのは、1891年になってスイスの象徴として描かれたこうした絵を通して自由に意見交換をさせている点である。

 

少女A
彼らは見たのよ。シュヴィーツの人たちが丸太や石をハプスブルクの人たちに向かって投げつけているのを。

 

少女B
(ここに描かれている)このハプスブルク(の騎士)は思っていたんでしょうね。ハプスブルクは盟約者団に簡単に勝てるって。装備は万全だからっていう、ただそれだけの理由でね。
でも、盟約者団たちはもっとちゃんと考えていたの。

 

少年
どっちも悪いよ。シュヴィーツの人たちは修道院を襲うべきじゃなかったんだ。(※2)

シュヴィーツの役所について:

  • 公式WEBサイトBezirk Schwyz』(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
  • 『Erlebnisregion Mythen』-「Rathaus Schwyz」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
    役所についての説明(※描かれた図版についての説明もあり)

 

壁面の絵を写した写真資料:

※1 建物を改修工事するついでにスイスの国立記念日の600周年に向けてファザードに国の歴史を代表する絵を取り入れることになった。1891年のことである。アインジーデルンのAdelrich Benzigerが企画。画家はFerdinand Wagner。

 

※2 モルガルテンの戦いに関わるシュヴィーツの動向には、当時ハプスブルクとの関係の深かったアインジーデルン修道院やその支配領域への急襲が深く関係しているため、少年はこうした発言をしているのである。かなりざっくりとのみ説明すると、アインジーデルン修道院がこうしたことについてハプスブルク家の直接介入を訴えたため、大公レオポルトがそちらへと進軍することになり、かのモルガルテンの戦いが起きることになった。

教師へのインタビュー

 教師であるVincenzo Gallicchio氏へのインタビュー。Winzenried氏が、壁面の絵はまるで私自身がその場に居合わせたかのように鮮明に当時のことを教えてくれるようですねという旨の質問をしている。
この質問に対し、これは幼かった時分に歴史への興味を持たせてくれるものにはなったというように、Gallicchio氏はあくまでも慎重な受け答えをする。彼の立場はあくまでもこの問題に関しては中立的で、これは(歴史を彩るための)美しい物語ですからといった発言をする。

 

Winzenried
歴史家が(この図版に描かれている戦いについて)自由のための戦いではなかったと発言するようなとき、あなたはそれが気になりませんか?

 

Gallicchio
そのことは気にならないですよ。これは(歴史を彩るための)美しい物語ですから。
人々はこのことについて自分自身と戦ってみたほうがいいでしょうね。この(図版が描いているようなものや歴史について)疑ってみたほうがいい。これは問いかけてみる価値のあるものでしょう。
ですが、そこには葛藤が伴うでしょう。それは本当に避けがたいものです。

 

 筆者による翻訳文の形で引用したGallicchio氏の発言箇所と、次に引用するナレーションの発言箇所は、まさしく本ドキュメンタリーでも問題になっているような現代スイスの問題を表現した箇所になってもいる。

 

ナレーション
この壁画は19世紀に描かれたものです 。人々はあの戦いの最後の(瞬間の)細部までもを自分は理解しているのだという印象を持っていました。
人々は長らく歴史とはこの壁画に描かれているようなものだと(認識)して語ってきたのです。

Vincenzo Gallicchio氏について
詳細不明。

1940年代の映像資料

 タイトルそのままのものが引用されている。本ドキュメンタリーでは、主に1940年代以降の精神的国土防衛の一環で撮影されていた映像の引用も多数見られる(※いわゆる「Schweizer Filmwochenschau(※1)」)。引用されている映像音声に乗って本ドキュメンタリーのナレーションも説明しているが、同盟の650周年記念に向けて国民たちの精神的支柱とするため、当時、こうした演出がなされていた。ここで引用されているのは、モルガルテンの戦いを描いたもの。

 もう少しだけ補足しておくと、20世紀の大戦下においてスイスは特にナチスドイツやファシズム下にあるイタリアに挟まれている地理の関係で極度の緊張状態にあったため、こうしたものを通して自国のナショナリズムをはっきりと形作り、愛国心を煽る必要があった。

 

引用されている映像のタイトルは「Schweizer Filmwochenschau, 18.7.1941」。どうやらWEB上にアーカイブはない。

 

※1 1940~75年の間、『Schweizer Filmwochenschau』と題してスイスの政治情報を発信することが行われていた。特に戦中においては、いわゆる精神的国土防衛の一つとして利用されていたのだろう。スイス政府が主体となって毎週発信していたようである。おおよそ5~10分程度の短い内容で、映画館で上演作品の前に流していたようだ。閲覧可能なものをざっと観る限り、直近のニュースだとか、「スイス観」の形成にかなり影響を落とすもの、もしくは積極的にそうしようと働きかけるものが散見される。本ドキュメンタリーはこの『Schweizer Filmwochenschau』からの引用が多い。
公開されているアーカイブおよび概要説明は以下を参照。

この『Schweizer Filmwochenschau』の映像はスイス国内で保存するプロジェクトが発足しているようだが、2021年7月現在、実際にWEB上で気軽に全作品を目録という形でだけでも検索・閲覧ができるほどにはなっていない(?)ようである。現に、本ドキュメンタリー内で引用されているようなものでも見つからないものがかなり多かった。

参考:『Schweizer Filmwochenschau, 1940?1975 - Memoriav』(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)

問い:神話でしかないのか

 ナレーションで本ドキュメンタリーに関する問題提起を行う。曰く、スイス人たちがモルガルテンの戦いについて学校で学んできたことは一つの神話でしかなかったのか。(のちに)盟約者団と呼ばれる三邦の英雄的な勝利と、そうして守り通した自由は、特にシュヴィーツに関しては、人々の歴史像として定着していたではないのかという旨のことを言っている。

政治家と歴史家の対談Ⅱ

 そして再び対談が引用されるが、ナレーションではこの対談をこの古い歴史観は討論によって厳しく引き剥がされることになりましたと表現している。一応、これまで歴史家たちの間では議論が続いていたという程度の触れ方をしてはいるが、上述した通り、かといって(特に関係するものとして)90年代以降のスイス史研究史については全く触れない。端折った表現をしていることからも、そうした背景は現地の人々からすれば暗黙の了解の一つなのだろうと思われる。

 

 この政治家の立場は旧来的なスイス史観を覆そうとする立場に対してやや攻撃的な意思を持っているもので、そこまで言うなら現代の歴史家たちははっきりさせてみるがいい。そんな証拠など見つけられるはずがないのだから、旧来的なスイス史観を否定することだってできないだろうがといった態度を貫いている。要は、証明できないならいくらでも物語を仮定の事実として入り込ませることはできるという感じの意見の持ち主なのである。ある種のロマンチストであり、スイス人の一部の態度を極端に表現してもいる人物であるとも言える。

 彼の評価に関しては、このシーンでナレーションが的確にこの保守主義者にとって、歴史家とは身内の悪口を言ってくる存在であり、国の歴史を傷つける存在なのですと表現している通りである(※ただし、本ドキュメンタリーはこうした対立構造を捉えてはいるが、やや歴史家側に偏向しているように見受けられ、その上で問いだのなんだのと延々をやっていたりと、えぐさはあるのだが……)。

 

政治家
だから現代の歴史家はそれをはっきりさせたほうがいいんです。モルガルテンで行われたかの戦いは伝えられたとおりのものではないのだと。
あなたがその証拠を探そうとしたところで、一つも見つけられないと思いますよ。だって、それは(確たる証拠が残されて)伝えられたものではないのですから。

 

 余談ながら、このシーンでの2人の言葉での殴り合いはなかなか見物である。

 

このシーンでは彼らの対決に関する新聞記事がいくつか紹介されている。新聞記事と全く同じものであるかは確認できないが、WEB版でも同様の記事が公開されていたため、以下に参考記事として挙げておく。

  • 『Blick』-「Das grosse Duell(記事公開日:2015/04/22)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトルを日本語訳すると「偉大なる決闘」といった意味になる。
  • 『Blick』-「Streit um die ≪echte≫ Schweiz(記事公開日:2015/03/16)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトルを日本語訳すると「「本物の」スイスを巡る論争」といった意味になる。
  • 『Blick』-「≪Sie wollen die Schweiz auflosen!≫(記事公開日:2015/03/17)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/16)
    記事タイトルを日本語訳すると「「あなたが望んでいるのはこのスイスの解体だ!」」といった意味になる。

歴史家へのインタビュー

 ここではMaissen氏とWinzenried氏が連邦首都(=ベルン)の地で合流し、街を歩きながら話す様子が映されている。

インタビュー

Winzenried
彼が言うには、「Maissen氏はEUのお友達だ (※1)」なんだとか。「彼は見い出したのだ、スイスはEUから締め出されてはいけないのだと。そしてそうした理由で彼は歴史をあのように方向づけて書いているのだ。つまり、『われわれはEUに加盟せねばならない』」とね。

 

スイスとEUの関係:
 スイスはヨーロッパ諸国に囲まれた場所にあり、また、その経済や政治はヨーロッパ諸国との交流なしには成り立たないくらいに密接なものがあるが、2021年7月現在でもスイスはEUには加盟していない。スイス内部ではEUに加盟すべきであるという派閥と、そうすべきではないという派閥とができているのが現状である。本ドキュメンタリーにおいても現在のこうしたスイスとEUの関わりや派閥関係といったものが触れられている。
ただし、親EU派のMaissen氏側にいささか寄り過ぎているところがあるため、親EU派がかなり進歩的且つ理性的な考えを持っていて、反EU派が非理性的に旧来的なものに固執しているというような印象を受けかねないような作りにもなっているのだが。親EU派の言い分としては、ざっくりとまとめてしまえば、これまでのように精神的国土防衛的などで培われてきたスイスの孤立化を守り通すのではなく、もっと世界と向き合い、交流すべきであるといったものになるのであろう。そういった意見も現在のスイスの問題の一面を捉えたものではあるのだが、もちろん、そう簡単な話ではない。
ドキュメンタリー内でも扱われているNEATの問題(※後述)もこういったスイス内外やヨーロッパとの関係が問題と繋がっている。あと、EUというものの体質も結構内部が泥沼化しているものなので(※スイスなどはこのNEATの問題を見るだけでも分かるように、EUに入らないようにしているのにも関わらずその暗部に巻き込まれてもいるようなものなのであるが)、そのへんも踏まえてEUとスイスの関係は捉えたほうが良いだろう。
 ついでに言えば、この点に関してはもっと本ドキュメンタリーで昔も今も外側との関わりで注目され続けているザンクト・ゴットハルト峠というものに触れても良かったような気はしている。
 スイスとEUの関係については、つい最近でも以下のようなニュースが出ていたので、この場を借りて紹介しておく。
 現在(本ドキュメンタリー制作の2015年当時も含む)、スイスとEUは「経済的パートナー」という立ち位置にあり、お互いに(というよりも少なくともスイス側は)間に線を引いた上で交流している状態にある。これがEUとスイスの現在の超基本的なことなので、本ドキュメンタリーを鑑賞するにあたっても、現在はおおよそそういう関係だからこう言ってるんだなーとかは頭の隅に置いておく必要がある。

 また、本ドキュメンタリー放映の翌年にあたる2016年にもEUへの加盟申請の取りやめが正式に決定している。

ついでにこれに関連する記事もいくつか挙げておく。

 もう一つおまけに、スイスとEUの関係に関して広範囲にわたってまとめられていたので、以下も挙げておく。

  • 小久保康之「スイスのEU政策」(『日本EU学会年報』36号、2016年、日本EU学会、pp. 268-286
       → 目録・本文閲覧:『Cinii』の該当ページ(最終アクセス日:2021/07/17)
       → 筆者情報:『KAKEN』-「小久保康之」(最終アクセス日:2021/07/17)

 本ドキュメンタリーでたびたび引用されるMaissen氏とBlocher氏の対談は、「旧来的なスイス史観を覆す視点vs旧来的なスイス史観を固持したい視点」の論戦でもあるのだが、さらに言えば、「親EU派vs反EU派の論戦」にもなっていたりと、歴史認識にかなり濃い形で政治成分が含まれているものになっていることも意識しながら本ドキュメンタリーを観る必要がある。他の場面でもにじみ出ているのは、現在の歴史をどう捉えるか、われわれの過去をどのようなものとして未来に伝えるかということに並んで、「現在の政治的問題をどう絡めながら歴史を捉えるか」というものである(※こうした歴史認識というものは、特定の国に関係なくよくあることなのだろうということは一応言っておくが。少し考えれば分かるが、かなり極端なことを例に出せば、日本だって世界大戦のころだとか、戦後まもなくだとか、そうした節は散見されよう。そしてそうしたものの影響は今でも残っているところはあるだろうし、新たに付与しながら形作られてもいる側面はあるだろう。いわゆる「四大文明」という言葉にさえ何らかの意図が掬い取れるくらいなのだから、歴史認識と意図というものは切り離すことはすごく難しいものなのだと思う)。本ドキュメンタリーは両者の立場を通して人間の歴史認識の、言ってしまえば汚いところを捉えているところがあり、そこもポイントの一つなのだろうとは思う。
 そして、こうして大人たちの思想が絡んだ言葉での殴り合いがひたすら繰り広げられ、あらゆる大人たちがスイスのこの先の道程を定めていこうとする中で、本ドキュメンタリー冒頭で少年がどっちも悪いよ。シュヴィーツの人たちは修道院を襲うべきじゃなかったんだと語っているところが沁みるものになってもいるわけである。純粋にフラットな視点で歴史を振り返っていたのは彼くらいなものであるとさえ言えるだろう(※私感)。

 

 政治家との対立についてMaissen氏へインタビューしている内容が描かれる。スイス人たちがモルガルテンの戦いなどによっていかに固定観念を築き、束縛されてきたかについて語っている。このシーンでの彼の受け答えは本ドキュメンタリー理解のために重要なので、全て拙訳の形で引用しておく。太字などの装飾処理はこちらが手を加えたものである。

 

Maissen
我々は目下のところ、三つの現実的な可能性を抱えています。単独で進み行くか、互いに助け合うのか、もしくはEUに加盟するのか。

人々にはこれらの可能性について開けっ広げに討論する時が訪れるべきなのではないでしょうか?
スイス人民党は例えばこう言うでしょうね。「いや、われわれは全く別の事柄について討論したい。それは単独で進み行く以外には一つとして別の道は与えられてはいないのだから」。
そんな調子でわれわれはずっと独りぼっちで在り続け、そしてそれ故にわれわれは自分たちの幸福と自由、そしてわれわれの民主的な規律を享受してもいたのです。ひとえに、この単独で進み行くということのおかげでね。
これは、私は歴史的なものではないものと合致しているものだと考えています。それにもし人々がそれを歴史的なものだと証明できるのだとしたら、政治的な討議の場を設けたほうがいい。

〔中略(※ナレーションが入っている箇所)〕

人々はスイス西部には目を向けませんでした。テスィーン州のことはほとんど無視したのです。そのように手引きし、作り上げ、それを強く固持したのです。その文化史を、その女性像を、その経済活動を……。
人々がスイス(像)を押さえつけたが故に彼らの多様性はひどく僅かな要素によって形作られもし、そうしてこの国もそうなるべく形作られてしまい、後世までもそのように在り続けてしまっている(現状な)のですが、これではうまくいくわけがありません。
理解したほうがいいのは、人々がどこへ向かっているのかということ、人々にはあらゆる広がり方があるべきだということ、そこには多様な歴史的な可能性への眼差しがあるのだということでしょう。

 

 いささか同じことを繰り返すことになるが、Maissen氏の主張は、まとめれば大体以下のようになる。
現代人の古い価値観がスイスを孤立させてしまっている。現代のスイス観は一部のスイスにとって都合がいい形であらゆるものを切り捨てた上で多様性を排して成り立っているものでしかない。形作られた上で成り立っている自由観に囚われていないでEUに加盟すべきである。
これが彼の主張の軸にあるもので、彼はここから展開してスイスの歴史がどういうものであったのかを検証している立場になっているのである。
筆者としては、EUに入ることで理想的な多様性が得られるとも思えないし(むしろ、それこそ一部の国にとって都合がいい形で多様性だとかいうものが形作られ平均化されるものだと思ってさえいるのだが)、そこが説明されることもない。

 

 また、上記の引用末尾に出てきた人々がどこへ向かっているのかということという発言にも見られるが、本ドキュメンタリーでは随所でこうした言い回しが散見されている。より明確に表現すれば、これは、ゴーギャンの絵画でもおなじみの哲学的問いかけであるところの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか(D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons-nous?)』に連なるものであり、本ドキュメンタリーの後のほうでは、本作タイトルをもじった言い回しを直接発言する話者も登場している。この問いも本ドキュメンタリーにおいては重要なポジションにある。

 

※1 このWEBで公開されている記事でもそうした発言が見られる。

  • 『Blick』-「《Sie wollen die Schweiz auflosen!》(記事公開日:2015/03/17)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/17)
    記事タイトルは日本語に翻訳すれば、「《あなたが望んでいるのはスイスの解体だ!》」といった意味。

歴史家たちの一般的学説まとめ

 ナレーションにて、本ドキュメンタリー放送の2015年現在時点での歴史研究者たちの一般的な歴史認識、定説について簡単にまとめている。本ドキュメンタリーにおいても大前提のまとめになっているため、これもまた拙訳をそのまま引用しておく。

 

ナレーション
モルガルテンについてこんにちの歴史家たちの(見解は)一致しています。1315年にモルガルテンにおいてシュヴィーツハプスブルクとの間で一つの紛争が起きたのだと。(しかし、)その背景とディティールについてはほとんどわれわれが知ることはないのだと。
見解が固まっているのは、簡潔に言ってしまえば、シュヴィーツ、ウーリ、そしてウンターヴァルデンがこの戦いの結果、誓約を交わしたということです。そして、有事があったときには相互に助け合う権利が(この誓約には)あるということです。それから、この誓約はブルンネンにおいて結ばれたことは確実なことであると。

モルガルテンを記念祭化した原因について

 ここでは、20世紀になってから精神的国土防衛の一環でモルガルテンの戦いを(シュヴィーツ州が中心となって)記念祭として大々的に祝うようになったことについてクローズアップしている。歴史認識、伝統などそういったものがいかに(当時の状況も相俟って)創られたものであるのかということを暗に語る内容になっている。

 Winzenried氏は20世紀になってこの記念祭を立ち上げた中心的人物だった者の孫であるBert Schnuriger氏のもとに取材に赴いている。

 

Bert Schnuriger氏について:
詳細不明。テロップ上では「かつてジャーナリストだった人物」という紹介のされ方をしている。引退に関する記事は発見できた。いわく、『Die Neue Schwyzer Zeitung』という新聞の記者だったようである。

関係者(Schnuriger氏)インタビュー

 Winzenried氏がSchnuriger氏の自宅を訪ね、彼の思い出を写真を見ながら語ってもらっている。一枚の古い写真がここで問題になっているものである。その写真はモルガルテンの戦いに関する記念祭を写したもので、そこには彼の祖父とGuisan将軍らが写っていることが分かる。この写真はどういうことなのかを父に問うた彼は、父の口から、祖父があの記念祭を立ち上げたということを教えられたという。

 

Schnuriger
……こんにちでいう記念祭を……11月15日に、(モルガルテン山の)背斜の所で催した時の様子なのだとか。
つまり、この祭典は彼によって催されたのだとか。だから、あの祭典は彼に遡ることができるものだというんです。

 

Guisan将軍について:
Henri Guisan氏のことである。Guissan氏は、大戦期において生まれたスイス国内の「精神的国土防衛」に関して大きな影響を与えた人物であり、概ね英雄視された上で好意的な評価を受けている人物である。20世紀のスイス史を語る上で欠かせない人物なので、文献等にもよく登場する。語るとキリがないため、ここでは(不適当なことは承知しながらも)『Wikipedia』の該当記事を紹介するに留めておく。

  • Wikipedia』-「Henri Guisan」(※日本語版の記事を貼っておく)(最終アクセス日:2021/07/17)

 

戦時中に行われた記念祭について:

  • 『Morgarten』-「Erinnerungskultur」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/17)

資料館史料の確認

 続いて地域資料館へ赴き、Schnuriger氏の祖父が記念祭を立ち上げたことを証明する文書が撮影されている。あまり文書に書かれていることを細かくは取りあげていないが、ナレーションから察するに、記念祭がどういった理由で立ち上がったものであるのか、彼の祖父がWWⅡのころにどのようにこの立ち上げに関わっていたのかが分かるようなものであるらしい。文書は、組織委員会シュヴィーツ州の政府評議会間で交わされた往復書簡である。

 内容に関しては、ナレーションなどが至極簡潔にまとめていたので、その該当部分の拙訳を引用しておく。

 

ナレーション
その古い文書は証明しました。
Schnurigerさんの祖父がシュヴィーツ政府から何らの支援も受けずに(あの祭典を行っていたことを)。ですから、彼はあの祭典を自分自身の手で取り仕切りました。
或る日に彼はシュヴィーツ政府にこの祭典の参加者のリストを進呈しました。(そのリストが今回見ていただく史料です。)

 

〔中略〕

 

Schnuriger
こと細かだ。
ここに記録されています。「彼はわれわれを喜ばせてくれました。そのため、ツーク政府は、将官殿、連邦議会員のEtter氏、アインジーデルンの修道院長(※Furstabt)、司令官率いる4つの軍団……」。

 

Winzenried
爵位を持っている神父の──。

 

Schnuriger
アインジーデルンの大修道院長が? ──(ならば)そうです。
「……(彼らがこの記念祭に)応諾しました」。

 

Winzenried
この人たちはツークに強制されてやって来たんですね。

 

Schnuriger
ここで釜に継ぎを当てて修復したわけです〔※向こうの言い回し。ここでは、要は「歴史修正をした」という意味か〕。

 

ナレーション
こうしてシュヴィーツ政府はこの記念祭にやって来ました。

 

地域資料館について:

  • 公式サイト』(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/17)
  • 上記WEBサイトで案内されている資料目録のページも貼っておく。「カタログ」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/17)
  • Wikipedia』-「Staatsarchiv des Kantons Schwyz」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/17)

1965年の記念祭の映像

 この時点では同盟州全てが参加していたわけではないらしいことが引用されている動画の音声の内容からも分かるが、もしかすると14世紀当時の話をそのように表現しているのかもしれない? 取りあえず、精神的国土防衛を意識しているこの動画の音声は、そうして参加をしない人々に対して勇敢さがないという表現を用いていることは注目に値するだろう。

 

引用されている映像のタイトルは「Schweizer Filmwochenschau, 26.11.1965」。WEB上でも閲覧可能。以下参照。

1941年の記念祭の映像と精神的国土防衛への問い

 引き続き動画を引用しながら、この記念祭が精神的な国土防衛のための大いなる構成要素となる神話の基礎となりましたと説明している。

 

引用されている映像のタイトルは「Schweizer Filmwochenschau, 8.8.1941」。WEB上でも閲覧可能。以下参照。

歴史家へのインタビュー

 上記の1941年の記念祭の映像に乗せられたナレーションの問いかけにMaissen氏が答える内容になっている。
問いの内容は、モルガルテンの戦いに関する記念祭が行われるまでは国内でスイスの平和や自由を伝えるようなものが行われることはなかったのに、なぜ、こうしたものがこんにちまで、考えうるあらゆる脅威に対しての(=外界・内外に対して)仕切りを設けたモデルのように存在できたのかというもの。

 ここも重要な箇所になるため、Maissen氏の回答内容の拙訳を全文引用しておく。

 

Maissen
この場で行われた記念祭はとても意義深いものでした。強調しておきたいのは、私たち(スイス人たち)は前々から準備を進めてはいたということです。私たち自身で自分たちの平和を守り抜くためにね。
われわれは民主主義的な慣習を持ち合わせています。そしてそういった慣習はあらゆるものにうまく合致してきました。人々とはとにかくやや度を超しながらもそういうものなのです。
こんにちではそれは異なった方法で行われ、それに人々(のほう)も過剰に度を超えないようにもしながら(これを)行っています。
私たちは述べることができますからね、私たちの過去の自由や不自由とはどのようなものであったのかを。

    

問い:チューリッヒの博物館にて

 チューリッヒにある国立博物館の中核にもシュヴィーツを中心とした神話に関するものがしっかりと根を下ろしているが、2015年現在、記念周年を迎える中でこういったものに関することが議論の種になっている。何が神話で何が事実であるのか、歴史的なものがどこに見出されるのかといったことを再びナレーションが問いかけている。

 

国立博物館について:

    

政治家と歴史家の対談Ⅲ

 歴史家は、「あの神話」が何らの根拠もないまま政治に組み込まれることはおかしい。神話だって重要なものであることに変わりはないし、例えば法律家だってあやふやなものを法として取り入れることは認めるはずがないのだから、「そういうものである」と鵜呑みにするべきではないという旨の発言をする。
 それに対して政治家のほうは、「こちら(=ケラーの詩の存在)はそのように疑われることはあるまい」という前置きをした上で、スイスの有名な作家であるゴットフリート・ケラーの詩の一部を引用(※ケラーのソネット「Die Tellenschusse」。後述する)し、この詩にあることは真理であるというような詩句の用い方をする。
それから、自分には10人の孫がいるが、彼らもそろそろ歴史を教わる年齢に育ってきている。それなのに学校ではもうあの神話に立ち返らず、学ぶ機会がなくなっているのだと訴える内容になっている。彼が保守意見の代表的立場として描かれているが、こうした主張の仕方は本ドキュメンタリーにおいては他の保守派の意見としてもよくあるものらしいというような印象を受けるようには本ドキュメンタリーは他の箇所も含めそのように制作している

 

ゴットフリート・ケラー(Gottfried Keller)について:

19世紀スイスを代表する作家のひとり。紙幣の顔になったこともある。『Der grune Heinrich(邦題:緑のハインリヒ)』が特に代表的な作品といえるが、この作品を含めケラー作品が翻訳されて国内で出版されたのは20世紀頭ごろ~中ごろにいくつか集中している程度で、現在の日本人にはなじみが薄い作家かもしれない。

 

ケラーのソネット「Die Tellenschusse」について:

政治家が引用したのはこのソネットの最冒頭部分にあたる、Ob sie geschehen, ist hier nicht zu fragen. Die Perle jeder Sage ist ihr Sinn.(拙訳:それが起こったかどうかは、ここで問うようなものではない。この装身具がすべて彼らの感受性によって(作られた)伝説であるのかどうかは。)の箇所。ただし、本ドキュメンタリー字幕では上記のように書き起こされていたが、以下に参考として挙げておく実際の詩の文ではOb sie geschehn? das ist hier nicht zu fragen; Die Zierde jeder Fabel ist der Sinn.となっており、細かくニュアンスが異なっている。取りあえずここでの拙訳では、政治家が意図して読み上げているニュアンスに近いのだろう字幕文の雰囲気に合わせて読んでいる。
ケラーがここで政治家が意図したようなニュアンスで詩を書いているかは分かったものではなく(そもそも19世紀のスイス史観と現代のスイス史観は異なるのだから、絶対に同じものであるはずがないのだが。スイスの歴史自体はかなり注目されてはいたとはいえ。ただし、ケラーが生きていた当時のスイスも内部は混乱しており、そうした中でこの詩がつくられたという背景はある)、こうした点からも、本ドキュメンタリーが描いている保守派に見られる歴史観の延長のようなものが見られるとも言えるのかもしれない。
 また、この詩は群衆の語りにこそ本当のことは見出せるといったことを表現していたりするので、少なくともこの政治家が自分の主義主張に都合よいものとしてこの詩を取り入れていることが分かる。それに、最初の部分しか引用はしていないが、詩全体を意識して発言している場合は、この詩に出てくる「おまえ」を敵対している歴史家など自分とは反対意見にあるような人々に仮託しているのではないかということも考えられる。私感としては、理論武装としてはあまり褒められたものではない印象を受けるものになっている。こうした印象も本ドキュメンタリーが保守派イメージを作るためにあえてやっていることだろうとは思うが。

引用源:『Zeno.org』-「7.Die Tellenschusse」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
出典は以下とのこと:Gottfried Keller: Samtliche Werke in acht Banden, Band 1, Berlin 1958?1961, S. 54-55.

 

 ちなみに、このソネットについて別個に記事を作成してます。↓

 

 

子供への授業風景Ⅱ-1──モルガルテンベルクにて

 ナレーションは、こんにち、どのような歴史をこの生徒たちは教わらねばならないことになるのでしょうか?と問題を提示し、再び子供たちへの授業の様子に場面が移る。
上記でも触れたが、本ドキュメンタリーでは、未来を担うことになる象徴的な代表者であるところの子供たちにどのようにスイス史を伝えていくべきかという問題も主題の一つとしている。ちなみに特にこの問いに関する答えらしい答えが見えてくることはないし、この問題に触れるのも保守派ばかりで、二者の立場からどうというものも見えない。あくまで中立的な立場で実際の現場に立っている教師とその授業風景が撮影されているだけまだ良いのだろうが。

授業の様子

 取材地は(たぶん)モルガルテン山のだいぶ麓に近い山中あたりか。教師が上記の人物と同じことから、子供たちの顔ぶれも多分同じだろうと思われる。ここで主に発言するのは引率に加わっているSchnuriger氏。彼は子供たちに、自分たちがここに身を潜めているハプスブルク側の兵だと想像させ、当時の様子を半ば体験してもらえるように語りかけている。

精神的国土防衛と1940年代の映像資料

 1941年に制作された映画の一部が引用される。モルガルテンの戦いを描いたもので、これも精神的国土防衛を育てる一環の制作作品の一つである。ナレーションは、シュヴィーツ側の長であったStauffacher(※1)が暗にテルの伝説を利用しているようにここでは描かれているのだと端的に解説を挟む。この映画では、Stauffacherがテルにまつわる地の近くを戦場に定めようとしていることが暗に語られている(※めちゃくちゃ遠回しな言い方をしているため、視聴者は、テル伝説まわりの地理関係などを前以て把握しておく必要がある。ちなみに、べつにエーゲリ湖なりモルガルテン山の近くを敢えてテルと絡めるのは難しいと筆者の知識では思うので、何を意図しているのかは謎である。ナレーションは特にテルと名指しせずに「あの英雄」という言い回しをしているだけなので、Stauffacherのことを言っているだけなのかもしれないが、それにしてもよく分からない)。

 

引用されている映像のタイトルは「Filmausschnitt《Landammann Stauffacher》1941」。公的に公開されているようなものは見つからず。

 

※1 モルガルテンの戦い当時、シュヴィーツのリーダーだったといわれる人物。Werner Stauffacher。

  • 『HISTORISCHES LEXIKON der SCHWEIZ(HLS)』-「Werner Stauffacher」(※本文ドイツ語、他言語版あり)(最終アクセス日:2021/07/18)

子供への授業風景Ⅱ-2──モルガルテンベルクにて

 引き続き、モルガルテン山中での授業の様子に場面が戻る。

授業の様子

 山の麓が見える場所から山中に向かって進んでいく。この時もSchnuriger氏が子供たちに当時の兵の様子を伝えて想像してもらって授業を進めている。狭い山道で馬を引き連れた彼らが左右の森から投石攻撃を受けたことが説明される。

Schnuriger氏へのインタビュー

 山中でそのままインタビューが始まる。古い歴史書ではモルガルテンの戦いの記述に関して間断が生じており、なぜ当時の人々が詳細に記録をしなかったのか不思議だったが、こうして現地に来ると土地自身がその間断を埋めてくれることが分かったという旨の話をしている。なおかつ、ハプスブルクの人々はこの道を通るしかなかったことも理解できるはずだとも発言。
また、この発言箇所は、「(歴史を)語り残す」という行為を意識したものになっている。本ドキュメンタリーでは、子供たちに何を伝えるかなど、こうした行為も意識できるような構成になっているので、ここもそういった意味合いで取れるようにもなっている。

 Winzenried氏はSchnuriger(や14世紀の当時の記録者たち)に対し、あらゆる細部をはっきりさせず、ひいては全体さえも不明瞭にしているではないかと言い返し、結局のところ、現在の人々が確信的に語れることは至極最小限のものに留められてしまっており、1315年11月にある戦いが起きたのだという程度のことしかもはや語りようがないものになってしまっているのが現状であると指摘する。

 Schnuriger氏はそれに私はそれについては残念な(気持ちを)見出していますよ。人々がただ(そんなふうに)語るだけになってしまったことをと答え、探求することによって間断を埋めようとしない姿勢を批判する。

 

Schnuriger
私はそれについては残念な(気持ちを)見出していますよ。人々がただ(そんなふうに)語るだけになってしまったことを。
『ここでかつて重大な出来事が発生しました。それは確実に起こったものだったのですが、人々は(事の重大さを)理解してはいなかったのです。故に、語り継ぐこともしてはきませんでした』。(自ら探究していく気概もない)こうしたものに私は残念さを見出しているのです。

 

 このSchnuriger氏の発言は本ドキュメンタリーに取りあげられているような類の保守的な立場に見られる歴史観を擁護するものではないが(むしろそういうものも批判対象に含まれていると感じる)、とはいえ、一つの物事を追い求めることに対する現代人のドライさやおめでたい単純さを非難する内容にはなっていると言えるのだろう。(※私個人の解釈です。)

教師へのインタビュー

 次に、同じくこの山中に滞在したままGallicchio氏へのインタビューも行われる。

 Winzenried氏は彼に対し、あなたは教科書にはどのように記述されるべきだと思いますか?と質問。

 Gallicchio氏は、古い研究雑誌や教科書を鵜呑みにはせず、批判的に対象と向き合うべきであると回答する。そうしたものは簡単に入手できるようになっているが、そうした現状も含めて授業ではこのことをひとつのテーマにして考えていったほうがいいと主張。Gallicchio氏もSchnuriger氏もこの問題に関しては慎重的かつ中立的であり、自ら批判的になって考えてみることを推していると言えるだろう。

 

Gallicchio
私はSchnurigerさんに(同意の気持ちで)続いてこう言いましょう。私はそれ(※語られてきた歴史)が好きではありますが、(その気持ちと)同様に、なおその上でこのように(否定的にも)言うこともできるのだと。それに私には意見があります。人々は歴史をこのように(認識した上でそれを)語るべきなのではないかと。この地域の一員であるのならね。

 

 特に本ドキュメンタリーにおいてGallicchio氏は一貫してかなり良識的な考えの持ち主として登場しているように見受けられる。

エーゲリ湖畔での記念祭

 場面はエーゲリ湖畔で行われている記念祭の様子に移る。映像は700周年を記念する現在のものだが、ナレーションが語っているのはその50年前の650周年の時のことである。その時もエーゲリ湖畔が祭のクライマックスの会場に選ばれていたことを語っている。50年前の記念祭とはつまり先述したSchnuriger氏の祖父が立ち上げたもののことである。つまり、そこで記念祭として立ち上がったものが今日でもある種の儀礼化をして祭として行われているということなのだろう。

 

 また、(このシーンにはMaissen氏とSchnuriger氏と思しき人物も見られるが、どちらも説明がないのとこれまでとは見た目の雰囲気もかなり違うので不明扱いとする。)この記念祭に出席していた一般人たちへのインタビューが収録されている。

この箇所の各人の発言もスイス人たちの様々な考えが見えてくる重要なものになっているので、拙訳を引用しておく。目を通していただくと分かるが、本記事でも補足してきたようなものも含め、各人の言葉一つ一つに現代スイスの問題がかなり濃厚に凝縮されていることが分かるだろう。

 

Maissen(?)
誰一人としてこの(ことに関する)真実を明らかなものにはしていません。私は喜んで(このことを)告白します。私は神話を愛しているのだと。

 

男性A
この(2015年の)700周年記念祭はひとつの確認になっているのです。われわれはこの場所で一つに結束したままでいるのだと。そしてまた、このスイスの地においてわれわれは集合体としてまとまっているのだと。このことは私が自由であるために(必要なことだということを)意味しているのです。

 

男性B
この祭は愛国心を動機として行ってなどいませんよ、まったくね。ひとつの民俗祭礼なのですから。

 

女性
私はこれを素晴らしいものだと思っています。このように祝われていることがね。私たちは理解していますもの。どこから我々はやって来たのかということを。
私たちはこのように昔と同じようにすることができるのですもの。私たちに向かってやって来た(、自分たちのルーツとなるかつての先人たちの)ように。
外国人と移民(という存在)は、私たちのこのスイスについて何かしら示してくれるものがありますよ。

 

Maissen(?)
私はその歴史についての細かなことはよく分かってはいません。
これ以上(こうした意識と実態が)隔たれるほうへと進んでしまうほど、より一層、信頼できる確かなものは乏しくなっていってしまうでしょう。ですけれど、まあ、間違いなくそのようなものになってしまっていたのです。

 

シュヴィーツの盟約文書博物館

 取材場所はシュヴィーツにある盟約文書博物館に移る。ナレーションは、モルガルテンの戦いが実際に行われたものだと証明する収蔵物がここには二つ展示されているとし(※発言からは、「人々が」そう呼ぶことを好んでいるという表現をしている)、旗と同盟更新文書を紹介する。モルガルテンの戦いで実際に用いられていたとされる旗の紹介は簡潔に済ませ、学芸員のAnnina Michel氏にインタビューをする。

 また、旗の説明に際しては、当時の現場にありながらも、当時のことを何かを語ることはしてはくれないものとして紹介されている。

 

盟約文書博物館について:

  • BUNDESBRIEF MUSEAM」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)

 

所蔵品の旗について:

 以下に挙げるブログ記事にて紹介されている旗のこと。このブログはどうやら、どこかの学校(?)の子供たちの社会科見学の記録として書かれているもののようである。写真をよく見える形で取りあげていたので、それを理由にしてここで紹介しておく。
 また、2点目のリンクのほうは盟約文書博物館サイト内の旗に関するページへのリンクになっている。こちらではかなり小さく紹介されていたのもあって、上記のブログを紹介することにした。

  • 『Schulhaus Stoos』-「Besuch im Bundesbriefmuseum」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
    この記事の「Die Schwyzer-Fahne」の所で紹介されている旗が該当のものである。
  • 『BUNDESBRIEF MUSEAM』-「VITRINE 9: DAS SCHWYZER KREUZ」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)

学芸員へのインタビュー

 ここでのMichel氏の発言も重要箇所となるため、拙訳を引用しておく。文字装飾はこちらが行っているものである。

 

Michel
それ〔※モルガルテンの戦い〕は一つの素晴らしく際立った歴史であり、そして私たちもそれについて同じように物語るのです。
しかし、私たちはこう語るのです。これは歴史に基づく事実であるかのように振舞っているだけで、それに関係するものがあるわけではないのだと。これは一つの神話(でしかないのだと)。
モルガルテンの戦いは14世紀に起こったものである(ということ)。このことはシュヴィーツに関する新たな進展や、あの同盟に関するものへの影響をかろうじてもたらすものであったのだと。
ところが、16世紀そして特に19世紀には、それはもはや第一義には同盟による自由のための戦いだったのだとして(話が)作りだされてしまった後でした。そうしてそれは一つの偉大でシンボリックな意味を持ったものだということと、疑う余地もない一つの影響(ある存在だという地位)とを獲得していたのです。この国〔※厳密には「土地」の意〕の公的なる正体として(の地位を)ね。

 

 また、ナレーションは一般的な歴史認識として、モルガルテンの戦いの後に結ばれた更新同盟は、19世紀の終わりまで(スイスという国の中に納まっている各州の)同盟の基盤として重要なものとなっていたといってもよいほどのものでしたと紹介。そして遡ること1291年締結の三邦の同盟がその礎となっているのだということも含め、こうしたことが学校で教わってきたものだというように説明している。

政治家と歴史家の対談Ⅳ

 場面は再び彼らの対談映像の引用になる。今度は、リュトリの誓約の話をしており、2人ともリュトリにおいてリュトリの誓約は行われなかったという、そこは一致した見解で話してはいるが、ここでも対立を始めて話が入り乱れていく(ただし、ここで触れたことを短くやり取りしているだけで、とにかく傍からは観ていて意図不明である)。取りあえず、この箇所も現代スイス人の間の対立を象徴的に掬い上げた引用になっているのだろう。

Keller親子へのインタビュー

 場面は変わり、Keller親子へのインタビューを扱う。取材場所は不明。
 本ドキュメンタリーで問題視されているものについてはどちらも保守派の立場にあると言える。このトピックで表現されているのは、父から子へと歴史が語られることといったものだろう。つまりここでも、子供にどのように歴史を語るのかという問題を取りあげるものになっている。

 ちなみに息子のほうは記者でもあり政治家でもあり、(旧来的な)スイス史の普及に関して活躍している人物であるという大前提がある。

父親へのインタビュー

 父親であるWerner Kellrer氏へのインタビュー。彼は、われわれは歴史のディティールには立ち入らないようにして接してきたと語る。息子たちが学校へ行くようになってもスイスで休暇を過ごし、その期間はスイスの歴史に触れられるようなことをしてきたし、戦いについても自分の口で物語ってきたのだと発言。要はものすごい保守派であるということだろう。

 なお、そうした発言を受けてWinzenried氏はあなたはそうしたものから身を置いて何か別のことを語ることだってできたはずですよねと、いささかちくりと刺すような言葉を返しているが、特にそこは深掘りせず(※ここも本ドキュメンタリーの傾向が保守派に対してはドライな態度であることを示しているように見える)。

 

Werner Kellrer氏について:

調べたが詳細不明。

息子へのインタビュー

 息子であるPeter Keller氏へのインタビュー。父親から教わったことでこの戦いに興味を持ったのかと尋ねられ、早い段階で興味の対象になったと答えている。それにモルガルテンの戦いにのみ興味を持っていたわけではなく、他の歴史への連なりの一つとして捉えていたが、そうすることでわれわれ(スイス人)はそれ以上は踏み込まないところもあったのだというような旨の発言をしている。
 補足すると、彼も保守派側の人間であり、かなりそちらへ偏った視点から語ることが以降の展開からも見えてくるが(作られた歴史に関しても肯定的なほうだろう)、とはいえ概ね中庸にいくらか近寄ったところから発言はしているとも言える人物でもある。

 

Peter Keller氏について:

記者であり政治家(※国民議会 ニートヴァルデン所属のスイス国民党員)でもある。

  • 『公式サイト 』(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
  • 『Das Schweizer Parlament』-「Peter Keller」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
  • 『SVP』-「Peter Keller」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
  • 『personlich.com』-「Journalist Peter Keller tritt kurzer」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
    過去には『Woltwoche』の正社員として所属していたが、2015年からは所属を置いたままフリーライターとして肩書を変えたようである。

13~14世紀のスイスについてのまとめ

 ここに至ってナレーションは13~14世紀のスイス史観についての定説についてのまとめを行う。基本的なことに触れているので、これもまた拙訳をそのまま引用しておく。

 

ナレーション
自由のための戦いであったのだと結び付けて固くこれを主張し、一つの歴史像(が形作られていました)。そしてそれが物語られていたのです。
原州〔※ウーリ、シュヴィーツウンターヴァルデン〕の発生によって生まれた一つの核によってあの(盟約者団による)同盟は形作られました。
1291年に同盟が締結し、やがて(その影響が)五つの他の地域にも及んでいきました。(そして、)標語である『自由へと突っ込んでいけ(Freiheit steckt an)』に向かってこの(盟約者団による)同盟は急速に規模を増してゆき、ハプスブルク家による専制的支配からこの国は解放されようとしていました。
(しかし、)現在の研究はこうした主張を否定していますし、(そうした動きは1291年直後に発生したのではなく、)13世紀~14世紀ごろに(事後に結ばれたものだとして)記述しています。これらの同盟は複雑に混沌とした網の目のようになってそれぞれ(の州)が結び付いていたのだと(解き明かしているのです)〔※つまり、各州が一つのまとまりとして大きな同盟を結んでいったわけではなく、あくまで各州がバラバラにいろいろな小さな同盟を結びあっていただけだということを言っている〕。
同時に──一致団結して同盟地を作り上げて──ハプスブルクについても(こうした状態の中で関わりがあったのだと説明しました)。〔※三邦同盟後の拡大化の中でも、すべての州が一転して反ハプスブルクという立場になったわけではなく、様々な対応があったということを言っているのだろう。〕
(また、)長い時間をかけて不安定なバランスを取りながら(それぞれの)街と土地とができていったのだと(も説明しました)。
まず初めに、15世紀半ばを過ぎると人々は同盟について話すことができるようになりました。この時点ではまだ神聖ローマ帝国の長い物語が(影響を)留めていたため、ドイツ(語圏)の国としての(影響が強く残ってもいました)。

政治家と歴史家の対談Ⅴ(※ここのみ他とは面子が異なる)

 政治家と歴史家の対談映像の引用ではあるが、他の箇所とは面子が異なる。登壇者は、Thomas Maissen氏(歴史家)とPeter Keller氏(政治家)、Rebekka Wyler氏(政治家)の3人+司会。場所はチューリッヒ州内。本ドキュメンタリー内で観られる引用箇所はMaissen氏とKeller氏の論戦に焦点が当たっている。

 こんにちの時代のためにどういった歴史的イメージが必要とされたのかということが何度も議論されてきたのであるというナレーションの説明と共にこのシーンが引用されている。

 

本ドキュメンタリーで引用されているこの対談はWEB上でも公開されている。

  • 関連記事:『Neue Zuricher Zeitung』-「Streit am Grillplatz der Geschichte」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/18)
    ※スイスの報道関係である「Neue Zuricher Zeitung」が公開している。収録日は不明だが、記事公開日は2015/04/23。
    字幕対応はしているが自動生成であるらしく、精度は不明。

議論

 ここでも大体の話の流れは、歴史家の見解に保守的な政治家(※Keller氏)があなたの見解は誤りだと食い下がり、歴史家がそこまで言うなら歴史学の手法で反論してこい、あなたの歴史観は古いままだと言い合うものになっている。ただしこうした構図の中に今度は第三者(Wyler氏)が交じるといった違いがある。彼女(※Wyler氏)は、あなたがたの言い争っているような所に混じるつもりはなく、私はあくまで活気のある場所に共に居たいだけである。保守的なスイス人民党などによって私たち左派は辛酸を舐めてきている。われわれはただEUに加盟したいだけなのだという意見を差しはさむ。彼女はMaissen氏同様にスイスがEUへ加盟することに賛成している立場の政治家なのである(尚且つ、問題視されている歴史認識については問題にはしない立場でもある)。

 以下、三者の意見が端的に表現されている箇所の拙訳を引用しておく。Maissen氏以外の2人はほぼ全文引用。

 

Maissen
あなた(=Keller氏)とあなたの政党は相変わらず20世紀の歴史観を固持しているのですよ。

 

Keller
あなた(=Maissen氏)はいつもわれわれに向かって投げつけてきますよね、われわれがあの歴史のことを道具として利用しているのだと。
ですが結局のところ……、これって一つの庭みたいなものですよね。人々はそこで放置されているようなものだ。
(私が所属する)スイス人民党はそのことを受け入れていますし、そのことにきちんと気を配ってもいますよ。誰かしらがはっきりと判断してくださるでしょう。この場所では自分のセルベラート〔※ソーセージの一種〕を(自分で)焼き網で焼かねばならぬのだと。
そして今まさにそうした瞬間や話すべき時がきたわけです。「この国の保守派はあの歴史物語を我が物とし、道具として利用しているのだ」(などと言われたからには)と。

 

Wyler
私はあなたがたのキャンプファイヤーに交じって(ここに)腰を掛けているわけではありませんよ。これについては私には言えることがあります。それなのに、私は何一つとしてそれに対峙することができないんです。あなたがたが(たった1本の)ヴルストを焼くのに手いっぱいになってしまいまっていますからね。そんなだから私は歴史に基づく場所で燃えている、活気ある火を囲んで座ることができないのです。
私たち左派の人々はスイス人民党によって放り投げられた非難の下で喘ぎ苦しんでいたんです。スイス人として存在するために、われわれはただEUに加盟することを望んだだけなのに。
ですが、ここで私はひどく簡単な言葉のみを言うべきなのです。「それは全く違う」のだと。そして、「残念ながら、それがスイスの歴史に齎すものは何もないのだ」と。

戦いについての対比構造ができた理由

 そしてナレーションは、こうした対比構造の発生には世界大戦(期における精神的国土防衛など)や戦後対応が関係していることを示唆する。国の平和を愛する心を植え付けるために社会民主党が考えだしたことであり、その時に発生したようなものが現代に至っても一部の人たちによって抱かれたまま、それがスイス全土で受け入れられてしまっている現状であるのだと。

 大戦期~以降のスイス史について参考になるものを挙げておく。これについて触れている図書なり何なりはあまりにも数が膨大にあるため、本ドキュメンタリーに関するものから少しだけ紹介するに留める。

 

書籍:

WEBサイト:

大戦のみを重視する人々(00:25:00~)

 この主題では、現在に生きる自分たちとは直接地続きの関係にある戦いだとして、WWⅡ戦中および戦後にのみ注目する人々などに焦点が当てられる。現在スイス国内にいる世代においては遠い過去でしかない数世紀昔のことは言ってしまえば至極雑に処理し、ある意味瞬間的に今を生きているような歴史観の持ち主が登場する場面があるところだとも言えるだろう。直近の自分たちが関われる過去の保存に全力を注いでいるとも言えるのだが。
 上述してきたように、スイスのネイション観は中世ごろに基盤がある。このドキュメンタリーでも言われている言葉を用いれば「神話化」されているのであるが、その神話化の形成で現代に対して直接的に働きかけを行ったのも大戦中~戦後なのであるが、以降の登場人物たちは、この点に関してはほとんどまともに触れない特徴がある。

大戦後との関係

1945年の映像資料

 いわゆるヨーロッパの戦争が終わった(=1945/05/08(※1))直後の様子を撮影した当時のニュース映像が引用されている。スイス国内の人々がラジオで終戦を知ってお祭り騒ぎしている様子が映し出され、引用映像のオリジナルコメンターは終戦をラジオで報せる連邦評議会は)生まれ出でたこの平和の産物を感謝による熱意で助け、(これまでにできた穴を)埋め合わせてゆくのだと(言いました)。我々はこうした言葉を、癒しと(これから)築き上げていくものによる新しい時代へと連れていったのです。と高らかに語っている。

 

引用されている映像のタイトルは「Shweizer Filmwochenschau, 11.5.1945」。どうやらWEB上にアーカイブはない。

 

また、引用映像の中で当時の新聞の紙面が映るシーンがあるが、特定はできず。書ける範囲で書いておくと、1枚目が『Der Bund』紙で記事タイトルは読めず、2枚目が『ティチーノ新聞』で記事タイトルは「戦争と限界」、3枚目が『ニューチューリッヒ新聞』で記事タイトルは読めず。

 

※1 この日が西ヨーロッパ等々におけるWWⅡの終戦記念日にあたる。連合国がドイツを降伏させた日であり、前日にはフランスで降伏文書が調印された。

現在行われる植樹式との関係

 社会民主党に所属するチューリッヒ州長のCorinne Mauchが中心になって植樹式を取り仕切り、この植樹式(※1)を行う理由を語るスピーチを行っている。場所は不明。曰く、終戦の日を迎える度に戦争の記憶がどんどん薄れていくのを実感している。だからわれわれはこうして石碑を設置してシナノキを植えることで、戦争があったことを思い出せるようにしたい。人間は破壊だけではなく平和へと導くこともできるのだということを忘れないようにしたい、といった旨の発言をしている。
この発言内容はある意味で上記で言われていたような、モルガルテンに関する14世紀当時の人々など、戦いに関する記録を積極的には残さなかった人々に相対するものになっている面もあるし(なおかつ、戦いの記憶を遺しているだけだとも言えるのだから、説明が足りないという点において14世紀の人々と変わらないという点もあるのだが……。忘れないとは今を生きる自分たちが当時を思い出すよすがにする程度の効力しかないことをやっているとも言えるので、長い目では対して見られていないことをしているというようにも解釈できるだろう)、本ドキュメンタリー全体に通底する、歴史と記憶についても触れるものになっている。

 

Corinne Mauchについて:

 

※1 詳細調べられず。

政治家(※Wyler)氏へのインタビュー

 上記の「政治家と歴史家の対談Ⅴ」の項目の箇所で登場していたWyler氏がここにも出席しており、彼女へのインタビューが行われる。

 まず、石碑が紹介される。ナレーション曰く、この植樹式の取り組みはWyler氏が中心になって取り組んだものらしいことが語られる。石碑に書かれている文章の拙訳を引用しておく。

 

1945年5月8日のヨーロッパの終戦の記憶にあらゆる感謝を。
これは平和へとその積み荷を運び、引き続き(そのための)貢献を行うものである。

 

 インタビューを受ける彼女の発言からは、親EU派であることが前提にあることが窺い知られるものになっている。この箇所も拙訳を引用しておく。

 

Wyler
この発想はあの5月8日を巡って持ち出されたものなのかもしれませんし、それがあって人々は知ったのかもしれません。つまり、われわれというものは全体の一部なのであるということを。
人々は存在できないのです、他の国や人々から隔離されて孤立したような場所ではね。

 

女性(キャサリン
あなたにとっては歴史上の出来事よりもこのような記念事業のほうが重要なのですか?

 

女性
そうしたものについては、私は一言として何も言いませんよ。モルガルテンだとかマリニャーノに関しての考えについてはね。ですけれど、私たちにとっては(遠い昔に起きた戦いよりもはるかに直接的に)重要なものですよね、20世紀に起きたことは。
(ですから、)この5月8日はとても重要な日なのです。

 

 ここからでは、大戦もしくはその後のスイスとEUの何を見てそんなことを言っているのか分からないが、多分このへんも説明があらためてされていないだけの箇所なのだろう。確かに大戦にスイスも巻き込まれたようなものなのだが、それは自国の防御のために孤立化が必要だったわけで、そこを補足せずに言っているので、結局何を言っているのかはよく分からないものになっている。多分、大戦が終わったことでスイスの緊張状態も同時に解決されたことから、自分たちと他のものとは切り離せない関係にあるのだという話になっているのだろうが。いささか乱暴な理論展開であるように筆者は感ずる次第である。上記の箇所もそうだが、このドキュメンタリーからだと言ってしまえば脳みそお花畑的なものしか見えないというか、あまりにも視野狭窄に見えてしまうつくりになっているので、もしかしたら故意でこのようなものにしているのかもしれない。

植樹式参加者へのインタビュー

 ここのシーンもかなり特徴的なものが詰まっている。個人的にもかなり面白かった箇所なので、かなり長くなるが、このシーンの箇所の拙訳を全て引用しておく。話者であるインタビュイーの女性たちの話は入り乱れているため、「女性A」などの形でも書き分けず、取りあえず「女性」という話者表記で統一して書き起こしている。文字装飾はこちらが手を加えたものである。

 

字幕
*彼女たちのおしゃべりが入り乱れている(ため書き起こし不可)*

 

Winzenried
皆さん方に訊いてみてもいいですか。どうしてあなた方がここにいるのかを?

 

女性
そんなの分かり切ったことだわ。この平和を祝うためよ。
マリニャーノはその傍らに見出せるもの(だと思っているわ)、私はね。それにモルガルテンだってそうよ。
つまり……、1815年のあのウィーン会議に私はじりじりしたものを感じたの。でも、それと同じように、そうしたものの近くに見つけたのよ。(軍隊への)一般動員というものが人々に褒めたたえられたということがね。
これってまた別の一面の話でしょ。

 

女性
──この記念祭には何の所以もないわ。

 

女性
(そう、)この記念祭には何の所以もないことよ。
本当のことなんて(私は知ら)ないもの。

 

女性
それが私にはとっても嬉しいの。
だって、Corine Mauchが言ったことなのだけれど、みんなも女性たちに感謝すべきだって。(※1)

 

女性
女たちが責任を引き受けたのよ。男たちはもうここにいられないからね。

 

Winzenried
人々はどちらもできたわ。

 

女性
戦争が始まった時、人々は決してお祝いなんてするべきではなかったのよ。(※2)
何があろうとも絶対にね!

 

Winzenried
ですが、モルガルテンやマリニャーノ、それにこの終戦のもの〔※現在進行形でお祝いしている終戦祝い事業のこと〕については?
これは皆さん、お祝いできていますよね。

 

女性
全部ちょっとした荷物みたいなものよ。

 

Winzenried
そんなことないでしょう、あなたが気が付いてないだけで。

 

女性
──そんなことないわ。

 

Winzenried
(そういったものだけ)棚に上げてる。

 

女性
──違うわ。
モルガルテン、この戦いは、別の社会(ないし土地、国)で起きたことだわ、そもそもね。
マリニャーノなんてなおさらそうじゃない。(※3)

 

女性
それについては、このスイスの中では混乱が存在していたの。

 

 このように彼女たちは、大戦中に偏向されていった精神的なものよりも、実際に起こったこと・現代の人間が体験したことそのものを重視しているのだと言えるのだが、当時のスイスの態度を支えたもの(=精神的国土防衛)や、当時のスイスの立場そのものは無視した上で語っているところが、いささか歪んでいるようには筆者は感ずるところである。ある種の見たいようにしか見ないといった態度で構成されているとも言ってしまえよう。
 特に引用部分で太字で強調した箇所などは、筆者としてはかなりのえぐさを感じた部分でもある。あらゆるものを度外視しないと出てこない発言である。こういうド短絡的な人、いるよなあ……とか思っちゃうわけである。

 

※1 スイスと女性の立場に関するものはよく注目される傾向にあるようである。いささか何かにつけてそこに触れようとする傾向があるような気は(筆者は)しているが、スイスとフェミニズムについては語れるほど把握していないので、その程度の感慨を述べるに留めておく。とはいえ少しだけ補足しておくと、スイスにおける女性の政治参入は遅れていたほうで、女性の参政権が連邦として認めたのは1971年になってからであった。最後までこれを承認したかった州も女性の参政権を認めたのは1989年になる。

 

※2 精神的国土防衛に絡んだ、ネイション意識をつくるための一連の動きのことを言っているのだと思われる。つまりこの場にいる女性たちは大戦時のできごとを快く思っていないようである。尚且つ、精神的国土防衛の意味を無視していることが分かる。こうした認知の歪みも含めて本ドキュメンタリーにとっては重要なところになるのだろう。

 

※3 モルガルテンは遠い昔すぎて今の社会とは地続きとは言えないという認識なのだろう。マリニャーノのほうは、例えば、傭兵としてミラノ側に味方して戦ったりしていたものであるため、この女性はこのように考えているのかもしれない。無論、国外で起こったできごとであるからこうした冷めた発言も出てきているのだろうが。
筆者の感想をこの場で書いておくと、このドライさはなかなか気味の悪い問題発言になっていると思うのだが。要は自分に関係のないものは何が起こっていようとどうだっていいというある種の排外的な意識があるように感じるので……。それを問題視してこの植樹式をやってるんちゃうんかいとか思っちゃうわけである。

スイスの独立とEU(00:28:22~)

1940年代の映像資料

 再び『Landammann Stauffacher』の一部を引用している。Stauffacherが周囲の人々にここにはまだ居るのか、ここで生きることにしがみついている奴、こんな土地となったシュヴィーツで──生きられるような奴が? 自由もないというのに?と言って鼓舞し、俺は違うぞ!と応えられていくシーン。

 

引用されている映像は、再び、「Filmausschnitt《Landammann Stauffacher》1941」。

 

ベッケンリードの礼拝堂で行われた集い

 取材場所はニトヴァルデン準州(※1)ベッケンリードにある礼拝堂もしくはその周辺。そこで行われている何らかの記念祭(※多分、マリニャーノの戦いか建国記念日か、そういった類のものだと思う)の様子を映している。また、この場にはPeter Keller氏が居り、彼のスピーチの引用と、彼とThomas Wallimannへインタビューしたもの、その他の参加者たちにインタビューしたものでこの箇所は構成されている。
 また、ここでは、スイスの歴史と現在のEUとの関係について触れられる内容になっている。

 

礼拝堂について:

聖ハインリッヒ礼拝堂(Katholische Kirche St. Heinrich)。特にここのことについてまとめておく必要はないと思うので、位置情報を貼るに留めておく。

 

Thomas Wallimannについて:
詳細不明。テロップ曰く、州会議員 緑の党/ニートヴァルデン準州

 

※1 念のため補足しておくと、ニトヴァルデン準州は、元ウンターヴァルデン州の一部で、その東側にあたる場所である。

前置き

 ナレーションによる導入発言。礼拝堂のざっくりとした位置紹介などを少ししている程度。

Keller氏によるスピーチ

 Keller氏が礼拝堂内でスピーチをしている様子が一部映される。本ドキュメンタリーで問題になっている点についての保守派の意見がよく出ている箇所でもあるので、そのまま拙訳を引用しておく。

 

Keller
自明なことながら、1515年の中立的立場は単純に天からもたらされたようなものではありません。
しかし本当のところは、つまりスイスは、その時からずっと(この立場のまま)500年を経てきているわけです。二度と自分たちの名前が何かしらの戦いの方へと導かれるようにはしなかったのです。
全ての他のヨーロッパの国々も、いかなる理由によるものであれ同様にこのように行動し、戦争をしないように自らを導いていれば、このヨーロッパ大陸は一つの苦悩を溜め込んだまま(今に至ることは)なかったのです。
そうしたら我々は1945年の終戦を祝う必要もなかったでしょう。

 

 彼の発言も一つの歪みが感じられるものになっていると思われる。スイスの美化というものもかなりありはするが、世界の孤立化と断絶化をよしとするような発言だとも取れるものになっているとも言えるだろう。本ドキュメンタリーはMaissen氏側に加担した内容になっているところが散見されることからも、あえてMaissen氏が指摘したような箇所(※スイスはこのままだといたずらに孤立するだけであるというような旨の箇所)に触れるような印象を抱く部分を引用してはいるのだろうが……。なおまた、上記の女性たちとは相対する発言にもなっているが、結局のところ似たような歪みが発生している(ように見える)構成になっているのは故意かなあと思いもする。
ともかくも、このKeller氏の発言はかなりある種の楽観視ないしユートピア観さえあるもので、世界に対する理解の甘さというものもなんとなくにじみ出てしまっている箇所にはなっているとも思う次第である。

参加者へのインタビューⅠ

 礼拝堂屋外でのインタビュー。ここでKeller氏とWallimann氏とにインタビューしている。

 Wallimann氏は、こんにちにおいてこれらの歴史はどういった意味があるのか、歴史を細かく定めていくことは私にとってどういった意味があるのか、自分は何を目標としているのかといった、自分の中にある問いについて話す。
 対するKeller氏は、私はそうしたことを事細かに説明はしないし、民主主義的な秩序を通してならば、目的は定義できるはずだし、だから私はそれに没頭しているのだという発言をする。そして、自分が全ての責任を負うことになるわけではなければねとも発言するが、多分この場合の「全ての責任」とは、下記の引用部分でもWallimann氏によって触れられるが、やたらめったらに自分には関係のないところの責任まで幅広く求められることを意味しているのだろう。

 超余談だが、Wallimann氏の発言であるところの、歴史を細かく定めていくことが私にとってどういった意味があるのかというくだりはなかなか残酷な問いだなと思った次第である(具体的にどういう意図で話しているのかは不明ではあるが)。つまるところ、自分にとって都合のいい形を求めているようなものにも取れよう。ある種、学問というものの否定ないしはそれを置き去りにした考え方というか……。ここでは別に、そういう方向で話をしているわけではないだろうが……。
それら含め、このドキュメンタリーの中では何度も見られるものでもあったが、どこまでも思想ありきというか。いささか気味が悪くも感じるところが私にはある。スイスに限った話ではないのだけれども!!!! そしてもちろん、ここではあくまで、自分のルーツや道程を求めることという意味でこうした発言がされているわけではあるのだけれども。

 

 Keller氏の発言を受けてWinzenried氏は、事細かな目標は説明しないとあなたは発言したけれど、EUに加盟したくないという明確な目標は持っているようですがと突っ込む。そのまま、Wallimann氏にもEU加盟についての質問を投げかける。
以降は引用したほうがよい箇所なので、最後まで拙訳を引用しておく。文字装飾はこちらが手を加えたものである。
つまるところ、保守派は個人主義的なものを大事にし、手に余る責任は求めない傾向にあることが強調されていると言えるだろう。

 また、この箇所は比較的保守派の意見に対して中庸の立場でドキュメンタリーの中に取り入れてもいる箇所のようにも感じもしたが、とはいえ、やはり歪みを抱えてもいたりと、なんとも一筋縄ではいかないのだなあと筆者などは思いもする。めちゃくちゃや!

 

Wallimann
今、我々は急に政治的な論争の中に投げ込まれましたね。
我々は、圧し掛かってくる責任に対して一度も落下することなく(自分たちがそれが)できるとは(思っていませんよ)。全世界(という規模)が持っているようなものの中にあって我々が(それを背負うなんていうことはね)。そのためにヨーロッパの内部にあるこの責任に耳をすませてより深い熟考を重ねたのです。
我々が(安易に)言うことはできませんよ。「そんなことはもうしてきたし、我々はそれに気を配っている」なんてことはね。
それではどうにもならないですよね。

 

Winzenried
──あなた〔※Kellerに向かって〕は「気を配っている」んですか?

 

Keller
彼ははっきりと言っているよ。EUは世界ではないとね。我々の社会参加(の責任)はヨーロッパに限られたものではないんだ。
みんな、スイスを歪曲して描くことについては問題にしないんだよ、その在り方を固持したときなんかはね。だって、責任を持って関わってはいないのだから。
でも、このことに私たちは取り組むんです。──様々な形でね。

私たちは基本政策に寄り添って、同盟基金(※Kohasionsfonds)から支払うわけです。アルプトランジット計画〔※通称:NEAT〕に取り組むために……。
こうして世界を駆け巡った240億もの金は決してスイスのために構築されたものではありませんでしたよね〔※NEATは世界(特にヨーロッパ)の流通事情が優先されて取り組まれたもの〕。あれはヨーロッパへの貢献のためにされたものなんですから。

 

アルプトランジット計画(NEAT)について:

アルプス山脈を南北に貫いてトンネルを作る一連の計画を指す。2021年7月現在では世界最長の鉄道トンネルだという。2007年にDer Lotschberg-Basistunnel(レッチュベルク基底トンネル)完成、2016年にDer Gotthard-Basistunnel(ゴッタルト基底トンネル)完成、2020年にdes Ceneri-Basistunnels(チェネリ基底トンネル)が完成し、ひとまず終了している。

  • AlpTransit Gotthard AG』(最終アクセス日:2021/07/19)
    計画の内容については「Die NEAT」のページを参照。(最終アクセス日:2021/07/19)

現在もNEATは更新されているようである。この時点でも相変わらずヨーロッパ全体の物流に関わることながら、板挟み状態の中でスイスが資金を出している状態であるようだ。

参加者へのインタビューⅡ

 引き続き礼拝堂屋外でのインタビュー。こちらのグループへのインタビューには特に人物紹介が挟まれないため、どういった人々が話しているのかは不明だが、その発言の立ち位置はWallimann氏とKeller氏(特にKeller氏)と同じようにスイスの独立性の保持という立ち位置にはあるようだが、対EUとの関わり、特にNEATのあたりに関してはやや相対するところにあるようである(※上記に引用したKeller氏の該当発言はどうとでも取れる曖昧さがあるが)。
拙訳を引用する。文字装飾はこちらが手を加えたものである。

 

男性A
金を手にして、我々はそれを支払うわけです。我々が自分たちを(外国から)隔絶できるようにね。
こうした資本金をスイスからいまだ流し続けることによって、我々はまだあと100年は延命するのだと。
でも、そんなことはありませんよ。(そうすることで)我々は10億もの金を投げ捨てることになる上、何一つ得るところはないのですから。何一つとしてね。

 

男性B
私たちは中立性を保持することを望んでいたのです。私たちは自由であり続けなければならないのですから。
私は勇気を持って言いましょう。
「ならば私たちは相互的な協定を(することを提案)しましょう。そして今すぐにあなたは(このことに)注意を向けざるをえないのだ!」とね。
と言うのも、このEUというものはスイスから拠出されるものに頼っているのですからね。この小国たるスイスから出されるものにですよ。

 

 要は後者の男性たちは、EUに黙ってもらうために自分たちの懐をただ痛める理不尽さを嫌がっているといった意見が明確にある。

 最後にナレーションは、スイスは外国に向かって門戸を開くか、閉じるか、どちらに平和の道があるのかというまとめ方をする。

マリニャーノの戦いと精神的国土防衛(00:32:26~)

 マリニャーノの戦いと精神的国土防衛を主題にした内容になる。以下の本文に続くように、いろいろと場面なども変わりつつインタビューを主にして内容が形作られていく。ここでは、(あまりそこまで踏み込みはしない内容にはなっているが、)1315年に起こったモルガルテンの戦いのほうはある程度批判的に見る向きが出来上がりつつあるが、同じように現代のスイスを形作っているものとして欠かせない1515年に起こったマリニャーノの戦いのほうに関してはまだそういったものがモルガルテンの戦いほど強くは見られないといった旨の内容等で構成されている。

ニトヴァルデン州にて

 取材場所はニトヴァルデン準州のアルプスの麓。具体的な場所は不明。聖母マリアの被昇天の式典を行う場に集う人々への取材。そこで、この地が出身地でもあるPeter Keller氏が再びカメラの前に現れ、彼へのインタビューを中心に、周辺の人物へもインタビューをする内容になっている。

前置き

 ニトヴァルデン準州のアルプスの麓にある建物(※教会などの類ではない)の中で式典を行う様子と共に、ナレーションがこの場所についての至極簡単な説明等を行う。

Keller氏へのインタビュー

 Keller氏は、この地は同盟発生地のようなものだ、この地は自然と共存した場所である等と郷愁的なものを語り、人々の純朴さも語る。そしてそれを人々は必要にしてきたのに、そうした昔ながらのものと引き換えに変えられようとしているのだという(多分そういう)旨の話をする。ただし、やや言い方があやふやで意図を掴みかねる。とにかくここからも(やや強引な)保守的な態度が強く見えるような印象を受けるようになっているし、そういう表現になることが制作側の意図なのだろうとも思う。以下、この箇所の拙訳引用。

 

Keller
この人たちは純真な人々です。彼らは自分たちの生活の一部を自然に向かって広げて侵食していきました〔※自然と共存してきました程度の意味合いか〕。
それはまた、予想外といったようなものではなかったはずです……つまり、スイスのこの地は同盟発生地のようなものですからね。人々には必要だったんですよ……にも関わらず、それと引き換えにしたんです。
そうして我々はこうした生活を……。

 

 これを受けてWinzenried氏はあの同盟はここで発生したものなんですか?と尋ねるが、これにKeller氏はええ。それがこのスイスの心室なのです。肺がチューリッヒジュネーヴであるようにはっきりしたことですよ。としれっと答えたりしている。
スイスのこの地が三邦すべてを指すのか、ウンターヴァルデン州だけを指すのかはやや曖昧だが(※ツッコミを入れるWinzenried氏の発言も曖昧さを含んでいるため)、とはいえ多分、後者の意味で言っているような気がする。しかし、後年に続いていく諸々の同盟関係同様に三邦の同盟締結に至るまでのそれぞれの歩みはおのおのに異なっていて、それぞれの思惑や利益目的があり、それがたまたま一つにまとまる目標があったから同盟という形で結実しただけなので、特に三邦のどこが発祥地になるということもないとは思うのだが。特に、ハプスブルク家からの影響はひときわ強い立場にあったとはいえ、ウンターヴァルデン州は他の二州に追従する形で呼応したという側面もあるため、猶更、少なくともウンターヴァルデン州が中心ではないだろうと突っ込みたくはなる。

その場にいた人物へのインタビュー

 それからKeller氏のほうがたまたま近くに座っていた同郷の男性にあなたはここで口にしてましたよね、幾人かのあなたの先祖はマリニャーノ(の戦い)で死んだのだと。と声を掛けるが、Winzenried氏との直前の会話の流れなどは特に映されていないため、やや唐突にいきなりマリニャーノが突っ込まれる感じでこの主題に突入する。先の話題であった三邦同盟の話の流れとも断絶しているように思われる。仮にそこと地続きにあるとしても、むしろ話題になって然りであるのは三邦同盟から発展していったとされる誓約同盟がいよいよ確立する契機となった1499年のシュヴァーベン戦争だとも思う。本ドキュメンタリーではこの内容の割に、なぜかシュヴァーベン戦争の存在も徹底して無視されてはいるのだが。もしくは誓約同盟を経て各州が拡大化するなり結び付く流れの中で発生した1386年のゼンパッハの戦いなどもスイスの独立に関する戦いとして重視されているのだが、当然のようにこのゼンパッハの戦いも本ドキュメンタリーではその存在が無視されている。多分これも視聴者には言うまでもないという端折りなのかもしれないし、モルガルテンの戦いと比較するのにちょうどいいのがマリニャーノの戦いだったのでそこだけで話が終始しているだけなのかもしれないが。マリニャーノに話が飛躍するにしても、マリニャーノの戦いもスイス史には欠かせぬ傭兵制に関するものやら何やらがありはするが、そもそも根底には報奨金のことだとか、同盟がゴッタルト峠南方の土地の支配権の獲得を目論んでいたからだとか、各カントンで自由と自治に関して束縛が生まれていてそれぞれフラストレーションが溜まっていたことが傭兵として出兵することで解消されていたとか、このへんが宗教改革での争いにも関係することになるとか、ともかくいろいろな要素が山盛りなのであるが(※もっと言えば、現在もローマでスイス傭兵として活躍している起源にあたる法王との美しい逸話も、背後には双方の思惑がそれぞれにあって結ばれた関係であって言うほどそこまで美しいものではないのだが、大体においてそのへんは無視される)、本ドキュメンタリーはそうした暗部も含んだ側面に触れることはない。なんでやねんである。先刻御承知なのだろうが。無視できない部分を無視して人々は対象を美化しているというふうに話を持っていっているのだから、そこは掘り下げて然りだとは思うのだが。

 閑話休題

 話を振られた男性を含めた3人の話を通して該当する先祖は彼の妻の家系図に連なる4人の兄弟であるらしいことが分かるが、男性曰く、だからといって別にマリニャーノの地へと自分が訪ねたことはない、──ないね、行きたいと思ったことなんて。と語る。その肝心の理由を語るところは音声不備によって字幕にも起こされていないが、直後のWinzenried氏とのやり取りから、多分、ニトヴァルデンが快適なので外に出る理由がないとか、そんなことでも言っていたのだろう。
 この一連の流れで本ドキュメンタリーが意図しているのは、歴史上にある特別な箇所と現在の自分(たち)との繋がりを誇示したがる割にはその実際を深掘りしようとはしない態度、曖昧で良しとしておく態度、もっといえば、空想上の理想でよしとする態度を露わにしようとするものなのではないかと思われる。「神話」とされるものは何もモルガルテンの戦いなどだけではなく、もっと幅広い範囲で現代人の感覚の上では既に根っこがはびこっているという感じだろうか。

マリニャーノの戦いについてⅠ

 ナレーションで導入にあたるような解説をするが(それにしても、やはり、なぜそういうことになったのか等の説明を端折りまくっているが)、この辺りの話をするのにシュヴァーベン戦争、ゼンパッハの戦いという言葉が出てこないのは筆者としてはやはりやや疑問ではある。以下に拙訳を引用しておく。

 

ナレーション
当時、あらゆる谷間の住民たちがスイスの中から移動して行きました。1515年のマリニャーノ(の戦いの戦地)に向かって。
マリニャーノ(の戦い)の神話を取り巻き、何が起こっていたのでしょうか?
一つの非常に大きな戦いの中で、あの同盟はフランス人たち(との戦い)の方へと浪費されていきました。
同盟は(戦いを通して)彼らの大国政治(の在り方)を仕上げ〔※要は、カントンの集合体としての在り方をもう少し突き詰めて連合体といった形をつくったと言いたいのだろう。たぶん。もちろん、この時はまだ現在のような国土よりももっと規模が小さいものである〕、(完全に形を)整えました。(自分たちは)中立的な立場であれるようにと。
そして、我々は現在に至るまでその態度を引き継いできているのです。

 

 ここでは、マリニャーノの戦いの結果、同盟はフランスとの関係に決着をつけて(暗部の側面がある)傭兵制度の方向性も定められた等々のことを特にこのドキュメンタリー上では明言化せず、これによって同盟のあり方、カントンらのまとまりのあり方が決まったといったようなかなり雑なところでよしとしているようであるし、それがマリニャーノの戦いの結果であるという前提で話を進めるらしい。
再三ながら、語らずにおいていることは大前提だから語らないとしているだけなのかもしれないが、とにかく雑な印象を私などは受ける次第である。このへんに関しては特に14世紀あたりからの連綿としたスイス史の理解が大前提になるところを上記の引用部分でも触れてこそはいるが、その落着点をマリニャーノの戦いに一任するような(しかもかなりいろんなものを無視した上でそうするような)見方をしているのは、私としてはかなり不思議にも思うほどである。他の説明箇所や特に保守派意見などを観ていてしみじみ思うのは、スイス国内の一般的な自国の一般教養レベルの歴史観はどうなってるのかという感じなのではあるが、そんなこともやはり放送国であるスイスにとったら説明するまでもない細部なのだろう。なんでやねん。

政治家と歴史家の対談Ⅵ

 政治家と歴史家がマリニャーノを巡り、真っ向から対立する様子が引用される。マリニャーノの戦いは当時のカントン同士の連合体のあり方を崩すものになったという一致した見解を通して、片やあなた(=歴史家)はそれを望んだのだと切り込み、片やあなた(=政治家)の外交態度は防衛といいながら攻撃的だと切り込む。政治家は、外交上の防衛、攻撃のための提携そして(自衛のために国内がそのように団結することこそが)この国の連邦主義というものだという旨の発言をし(※切り取られて引用された範囲だとやや曖昧な感じではあるが)、歴史家は、それのどこに中立性があるのかという話をしている。

マリニャーノの戦いについてⅡ

 ナレーションとMaissen氏がマリニャーノの戦いについての定説を簡単に述べている。その箇所の拙訳を以下に引用しておく。

 

ナレーション
モルガルテンの戦いとは対照的に、あのマリニャーノの戦いのほうは歴史の源泉の中で良い位置を占めたままで(いるように思います)。
この同盟は1515年にはあらゆる舞台の目立つ場所に存在していました。この争いの最中にある経済の中心地であるミラノを取り巻いて。(※1)
彼らは考えました。手中に強大な手札を持つことで──力のあるフランスの国王に対応(することも可能なのではないかと)。
ところが、彼らは(領土の)境界に突き進んだのです。

 

Maissen
政策上の目標設定と領土拡張政策をまとめることは、今は無き中央権力と非常識な目標とを携えたあの同盟がしたことでした。
こうした政策は、左翼側に偏ることを望む勢力がいる一方で、右翼側に偏ることを望む勢力も居たのです。
ここで彼らが一つの共通した戦略を(共に)抱いたことは決してありませんでした。一人の王の下で展開できるフランスのようにはね。

 

 上記を読んでいただくと分かるが、めちゃくちゃ話を端折っている。話されている内容は、マリニャーノの戦いの辺りをめぐる同盟の一連のできごとについて視聴者は知っているという前提になっている。適当なスイス史の本(ないしはネットでもいいだろうが……)に書かれているマリニャーノの戦いのあたりの記述を読んでいただければ充分分かる内容の範囲ではあるので、それを伝えるに留めておく。

 

 そしてナレーションはマリニャーノにおける対フランスとの戦いにおいて大量のスイス人傭兵たちが死んでいったことにのみ触れる。上述したが、ここにいたるまでにスイスのカントンらにどういった思惑があってその地に至ったかなどは語りはしないのである。なんでやねん。ところが、彼らは(領土の)境界に突き進んだのです。に込めているつもりなのかもしれないが。

 

※1 ざっくりとだけこの箇所の補足をする。盟約者団(※この時点でここに加わっているカントンは10を超える。周辺の従属関係地域なども含めると特に内部構造は複雑なものなので、完全に一つのまとまりとしては捉えてはならない)はフランスとも関係を築いていたが、1510年以降に互いの利益を通じて教皇であるユリウス二世が同盟を味方に付けることに成功し、盟約者団内で神聖同盟が結ばれることになる。そしてこの同盟がミラノ公領をめぐってフランスと戦うようになり、1512年には自分たちの保護区とした。続いて、その後のフランスの新国王がこの同盟を孤立化・分裂化させたりもする中で1515年のマリニャーノの戦いに至ることになる。マリニャーノ(現:メリニャーノ)はミラノ門前に位置する。同盟はこの戦いで大敗北し、これまでの方向性を変えて、平和条約の締結と傭兵契約同盟を結び、フランスとの関係を結び直し、北イタリア一帯の領土についての交渉の際には自分たちが欲しかった一帯を共同支配地として押さえることに成功してもいる。
 繰り返すが、本ドキュメンタリーでは徹底的に端折られているが(ほんとなんでやねんというほどに!)、過去の歴史上のスイス(と大きく括っておくが)の動向には、単に自由だとか何か言葉として美しいものにまとめられるに留まらないものがあるのである。内部にはさまざまな勢力、思想、目的があり、自分たちのグループのために他人の地所を支配するということも積極的にも行いつつ、複雑に糸が絡むような同盟関係によって結ばれてきたのがスイスの内部の実態なのである。

マリニャーノの納骨堂にて

 取材場所はメレニャーノの戦地近くに立つ納骨堂(礼拝堂)。50年前に修復された場所だというナレーションの説明がある。マリニャーノ財団関係者による案内のもと、彼らへのインタビューや、その他関係者へのインタビューで構成されている。
ここでは、マリニャーノの戦いで死んだとされる者たちの骨を納める納骨堂を中心として、この戦いでの大量のスイス傭兵らの大敗北がいかにスイスに影響を齎したかを語るものなっている。

 

納骨堂について:

  • Wikimedia commons』-「File nella categoria "Ossario Santa Maria della Neve」(最終アクセス日:2021/07/20)(※この納骨堂に関する写真資料)
  • 『SWI』-「Origine della neutralita? La battaglia di Marignano divide(記事公開日:2015/01/06)」(最終アクセス日:2021/07/20)(※オリジナル記事がイタリア語なので本文イタリア語にリンクを貼っているが、複数言語版あり、日本語はなし)(※この納骨堂にも触れている記事)
    記事タイトルを日本語訳すると、「中立の起源とは? マリニャーノの戦いにおける分裂」程度の意味だろう。

前置き

 Winzenried氏はマリニャーノ財団に所属する2人に連れられて納骨堂の前を歩いている。案内する2人は目の前に広がる野原を指しながら、ここから数キロにわたる範囲が戦場になっていたのだと説明した後、納骨堂の前の真新しい道路はつい最近造られたものだと説明する。

 そして50年前の改修工事が終わった時の除幕式の様子を映した映像が引用され、これに関しての至極簡単な説明をナレーションが行っている。

画面は建物の壁に貼られた記念碑を映すが、イタリア語でそれなりに長文で記載されているため、私には読めず。

 

引用されている映像のタイトルは「Antenne, 14.9.1965」。WEB上にアーカイブはあるが、スイス国内でのみ視聴できるようになっているようだ。

 

納骨堂の記念碑について:

 

マリニャーノ財団について:

  • 詳細不明

マリニャーノ財団関係者(Steiner氏)へのインタビュー

 マリニャーノ財団関係者であるAlfred Steinerへのインタビュー。彼は、ここに納められている骨が本当にマリニャーノの戦いで戦没したスイス人たちのものであるのかは長年議論されてきたが、我々は今ではこれ〔※スイス人の骨が埋まっていること〕は事実に等しいことなのだろうと(考えています)と説明する。そして以下の拙訳で引用した発言をするのだが、明確な根拠があってそうした結論をしたのではなく、そう捉えておきたいからそうしているという学問的な視点から見ればかなり残念な決断によってそういうことになったことが窺い知れる。彼が語っているのはつまるところ真実を軽んじロマンを優先したということでしかない。こうした粗雑とさえいえる態度も本ドキュメンタリーが暗に問題視している点の一つになるのだろう。

 ただしナレーションは特にそこに反応はせず(それが中立的態度なのだろうか……)、どんな骨であれ、こうした骨たちがマリニャーノの戦いの記憶を現在の我々に伝えてくれるものになっているのだと締め括っている。現在のマリニャーノの地は(どうであれ)かつての傭兵たちの敗北などによって利益をもたらしはしたし、フランスからの平和条約によってフランスもスイス人傭兵を雇う恩恵は享受し続けたのだと。ここのナレーションの結論は、上記に出てきた植樹式の内容を彷彿とさせるものがあるだろう。

 

Steiner
私はこれで今や批評家たちに言うことができるようになりました。
「私は(埋められた骨を)気の毒に(思うんです)。私たちにはそうする以外にできることなんてないでしょう」
「これを史跡に指定しましょう」
それでこうなったというわけです。

 

 この場面で明確に表現されているのは、お気持ちナショナリズムという感じのものだろうと私は思う。スイスも変わらないんだなあとか思ったりやはりするところである。

 

Alfred Steinerについて:

  • 詳細不明

 

マリニャーノの戦いに関する財団の動向については以下の記事でも触れられている。

政治家と歴史家の対談Ⅶ

 すごく短い引用尚且つかなり前提が端折られているので、いささかどういう意図がこの場面に込められているのかは掴みかねるが、歴史家は、傭兵は命を投げ出す覚悟が必要とされ、同盟の規約にはそういう決まりもあった。それが彼らが「中立」と呼んでいたものなのであるという旨の発言をし、政治家は、その中立の根本にはさまざまな理由があるが、転換期はマリニャーノの戦いに見出せると発言している。それに続いて再び歴史家が、これらの根本には、何らの結びつきも欠いておきながらも立つ木(があるようなものでした)。それでは問題があるというものです。宗教改革は決定的な破壊(によって成り立つものなのです)。と発言。

 ここだけだと彼らが傭兵と当時目指された中立の立場をどのように捉えていたかが掴みにくいが、多分、これまでの流れから察するに、歴史家はそれを批判的に捉えていて、政治家は大体肯定的に捉えているのだろう。二人の対立を撮影した対談内容からの引用なのであるから、少なくとも同じ方向を見ては言ってはいないのだと思われる。特に歴史家の言っている宗教改革のくだりなどは、当時14世紀ごろに各州内で溜まりに溜まっていたフラストレーションや傭兵稼業のしわ寄せ等々の鬱々とした状況がスイス国内で宗教改革が強く影響した原因になっていたことを意識してこのように発言しているのだと考えられる。
 ちなみに本ドキュメンタリーはこうしたスイス内部で吹き荒れた宗教改革の嵐についてもスッパリ端折って話を進めている。これに関してもスイス史にとっては基本的なところではあるから、敢えて語るまでもないということなのだろうが……。これについても視聴者は適当なスイス史の書籍等でそのへんの知識を補っておく必要がある。ざっくりとだけ説明しておくと、宗教改革によってその当時の場合は宗教を中心に保守派と革新派とに分かれて内部で戦争が起こったりしていた。このへんはここに至るまでの長期間に渡る原因や落着点までの経緯があるため、これもそう簡単に説明できる歴史ではない。単に宗教問題のみにまとまる話ではないのだが、一応ポイントなので言っておくと、三邦は宗教に対して保守的(=カトリック)なほうの立場に立っていたが、この宗教対立はプロテスタントおよび自由急進派の勝利に終わる。このプロテスタントおよび自由急進派の勝利はスイスに1848年憲法と連邦制をもたらすことになったりと、各カントンの独立意識についてという点にしろ、現在のスイス史観にしろ、政治や法にしろ、かなり大きな転換点になっている。この辺りの理解をしておくことは本ドキュメンタリー理解には必須のはずなのだが、ここではなぜか存在が薄い感じにはなっている。なんでや。
また、時代を変えて現代では宗教を背景とするものとは別の形で保守派と革新派が対立していますという内容を本ドキュメンタリーは伝えているのであろう(やはり妙に「察してくれ」の感じが強いが)。

歴史家へのインタビュー:宗教改革の話

 そして上記の流れから歴史家単体へのインタビュー映像に移り、宗教改革の話が語られる。この箇所は全文拙訳を引用しておく。元の発言がかなり淡泊だったので、必要に応じて補足している箇所(※()部分)がいささか長くなる。

 

Maissen
この宗教改革は、同盟体としてのプロテスタントカトリックの連合体によってできたものなのです。
そしてそういったことはおよそ有り得ることではありませんよね。ですからこれも、共通の外交政策を共に持つことができる(というようなことを前提としているのですが、そんなものはありませんよね。ですから、「何らの結びつきも欠いて」いると言ったのです)。(※1)

 

※1 上記でもやや触れたが、スイスは16~17世紀以降の宗教改革のあおりを受け、またその中心地ともなって、内部でも分裂して戦争が起きていた。カッペルの平和協定が結ばれるに至ってその抗争は一応の決着を付け、各カントンごとにどちらの派閥であるかがおおよそ固定したまま19世紀までそうした状態を保っていた。宗教改革はある種の新たな自由主義をスイスにもたらしたが、このへんが深く影響してくるのは18~19世紀のフランス革命七月革命のころになる(※これらの間にスイス史にとっても重要になるウィーン会議がある)。特にまた宗教的な派閥関係でいろいろごたごたしてくるのが七月革命直後で、また内部で戦争が勃発し、ざっくり言ってしまうと、保守的なカトリック派閥同士の同盟と革新的(自由主義・民主主義的)な宗教改革派閥同士の同盟(の特に急進派閥)とが争うことになった。1847年の戦争で急進派側が勝利したことにより、現在のもののベースにもなっている1848年憲法連邦国家としての在り方がスイスにもたらされることになった(※注記しておくが、急進派は中央集権的な統一国家を望む派閥でもあったし、それでもスイス国内の各カントンは現在に至るまで各々に独立している面がまだまだ強い状態を守りながら国としてまとまってもいる)。以降、こうした新風と旧来的な連邦主義とが共存している形が形成されていくことになる。つまり、これまではカントンを一つの国と仮定した場合、スイスは国家連合的なゆるいまとまりとして存在していたのだが、以降は現在のように連邦国家的に大きく一つのまとまりを持ちつつもカントンごとに分離してはいるといったような形になっていったのである。この辺りに関してスイスはかなり特徴的な国家体系を有しているのである。なんであれ、彼らの言う「宗教改革」には、このへんのとても簡単には説明しきれない泥沼化した事情を先刻ご承知状態で言い含んで発言しているわけである(そしてもちろんここで説明に含めなかったような問題はいくらでもあるので、あらためて言っておくが、適当なスイス史の書籍あたりを参照してほしい)。

聖マリア教会近くのマリニャーノの戦いに関する記念碑

 撮影場所は、上記で出てきた納骨堂のすぐ近くにある聖マリア教会すぐそばの記念碑の辺り。ここでマリニャーノ財団関係者たちや司祭へのインタビューを行っている。

 ここの内容は主にマリニャーノの戦いでの敗北がスイスにもたらしたもの、戦争の歴史を後世に伝えるということ、戦いがマリニャーノの土地のその後にどういう影響を与えたか、ヨーロッパの平和とはどれだけ大きな影響を世界に与えられるか(という考えがあるか)ということだろう。

 

記念碑について:

前置き

 ナレーションがこの聖マリア教会の近くの記念碑について説明する。曰く、この記念碑も50年前につくられたものであるようである。そして、人々はこの戦いにおける大敗北のおかげで救いが生まれたのだとこんにちに至るまで考えているのだと説明する。(※1)

 

石碑に書かれているEX・CLADE・SALUSラテン語。訳出はよく分からないが、多分、「(あの戦争の)敗北(者たち)に救いを(祈る)」「敗北から救い(がもたらされる)」あたりの意味か?

 

※1 膨張の一途を辿っていたスイスがこの敗北によって足止めされたという点のことだろう。これが現在のスイスの国境の規定の下地にもなる。こうまとめるとやや雑な理解のように私は感じるが、現在に続く中立性の基盤にもなったという捉え方もたぶん関係しているのだろうが。

マリニャーノ財団関係者(Steiner氏)へのインタビューⅠ

 彼がこの記念碑をかなり重視していることが語られる。敗北によって停戦したことを示す必要があるのだと。曰く、何と言っても、気抜けた人々は(こうした過去を顧みることなく)足早に通り過ぎてしまうものなのです。再び争いが起きるまではね

 ここも上記にある植樹式の描写を彷彿とさせる発言になっている。

マリニャーノ財団関係者(Kistler氏)へのインタビューⅡ

 上記のSteiner氏もこの場にいる。

 彼は、マリニャーノの戦いが起きなかったらここはテスィーン州にあるソットネリの地域のようになっていただろうと発言。つまり、その一帯のようにスイスの土地として組み込まれることはなかっただろう程度の意味合いだろう(※戦地跡のZividはイタリアの国土として扱われている)。
この辺りに関しては筆者は疎いのだが、多分、この戦いの当時、同盟側のねらいはゴッタルト峠の南側の支配権の確保であったので、Zividもその狙いの中に含まれていてもおかしくはなかったのだが、大敗北を味わったこの土地は忌避されたので膨張化していた当時のスイスに飲み込まれる対象にはならなかったという意味合いかなあというように捉えている。この辺りもドキュメンタリーは語らずとも分かるでしょうといった趣きなので、私には意図を掴みかねる。

 

ソットネリについて:

以下に参考として挙げておくMAPの位置情報は、大体このへん程度の意味合いである。ソットネリはルガノ近辺で、峠へのルートにも重なる重要な位置にある。

  • 『HISTORISCHES LEXIKON der SCHWEIZ(HLS)』-「Sottoceneri」(※本文ドイツ語、他言語版あり)(最終アクセス日:2021/07/21)

 

Fulcieri Kistler:

詳細不明。ただし、以下の記事に氏の名前が見える。他にも、2015年のマリニャーノの戦いからの記念年を迎えるにあたっての財団の動きに関する他の記事にも氏の名前が見られるが、省略する。

司祭へのインタビュー

 司祭であるEmanuele Kubler氏へのインタビュー。上記のマリニャーノ財団の2人もいる。どこを担当している司祭なのかは不明。少なくともマリニャーノの一帯のどこかのものだろう。
司祭はここに立つ記念碑の石碑(※1)について触れ、この一帯のかなり広域で戦いが行われたことを語る。そして、以下に拙訳で引用したようなことを語る。ある意味、現代においてもなお意識が肥大化しているヨーロッパの感覚が透けて見える箇所でもある。文字装飾はこちらが手を加えたものである。

 

Kubler
それは一つの良い好機でした。その好機に恵まれることでヨーロッパにとって意味していたのは、平和(であること)と同じ価値があるというものでした。(※2)これらの主題は当面の間は「そうである」というものになるのでしょう。
それを我々は覚えていないといけないのです。ヨーロッパのための平和とはこの世界(の平和)を意味するのですから。

 

 本ドキュメンタリーでは、スイス人たちが「ヨーロッパ」という括りで何かを語る箇所も多いため、ここも制作者はそうしたところを意識していると思われる。戦争、物流、社会、そしてそのヨーロッパの中心に地理的に位置するスイスというもので、ヨーロッパだけが世界ではないという指摘をしていたKeller氏の発言も思い出される箇所である(本記事「4. スイスの独立とEU」内参照)。あの主題中で保守派側のKeller氏がそこを意識していたというのも、本ドキュメンタリーが概ね保守派に対しては厳しいところがある中ではポイントではあろう。あの箇所は、革新派がEUを中心にして迎合しているという一面があることも指摘している箇所になっているのではないだろうか(※上記の司祭のその辺りに関する考えがどうであるかは置いておいて)。
また、このあたりの発言に関しても、やはり、スイスが平和であるためにはヨーロッパが平和であることが必要であるという、植樹式のシーンを踏まえた上で理解せねばならないような構成になっているのだとは思う。

 

Emanuele Kublerについて:

詳細不明。

 

※1 上記にすでに出た記念碑の近くにある柱状の石碑のほうを言っているのかと思われる。上記の石碑についてのところで写真資料として参考に上げたリンク先にこちらの写真も掲載されている(※2021/07/21現在)。

 

※2 悲惨な戦争があったからこそ深く記憶されるため。

現代の歴史へのまなざし(00:41:28~)

 ここでは、場所は不明だが、スイス国内のどこかで行われたのだろう何らかの式典を撮影場所としている。2015年当時のスイスの連邦大統領のスピーチを中心に構成しており、モルガルテン等の周年記念の年でもある重要な年の中で彼女がその立場で何を言ったのかに焦点が当てられている。

連邦大統領のスピーチ

スピーチ

 連邦大統領のSimonetta Sommaruga氏が会場入りするところから撮影されており、何やらこのスピーチが重視されていることが示唆される。本ドキュメンタリーで引用されているスピーチ箇所を全文拙訳で引用しておく。

 

Sommaruga

我々は現在の(視点という)鋲を用いて過去のことを調整することはできません。
未来のために作り上げた結論で(実際のものの)形を変えてしまうようなことだって(できはしません)。
これは確固とした値打ちがあるものであり、まさしく一つの共同社会や国家のための値打ちがあるものです。我々が自分たちを守る(必要がある)のは、過去を覗き見た時にそういった軽率な結論を前にしてしまった時なのです。

 

Simonetta Sommarugaについて:

以下を挙げておくに留める。

Blocher氏へのインタビュー

 この場に居たBlocher氏へのインタビュー。彼女のスピーチを褒め、これはこの国の中で大きな激変(を与えるもの)になるとまで語っている。恐らく自分の思想とは敵対関係にある革新派のことをあげつらいながら、連邦大統領としての気持ちに沿うこととして、あの講演で希望を述べられたのですから。──これは良い徴候ですよ。と発言しているのだが、本ドキュメンタリーで引用された連邦大統領のスピーチ内容からは彼がそこまで昂奮している理由は掴みとりかねるため、何ともまとめがたい。
ただ、スイスという国はあくまでカントンの集まりであって、連邦大統領という立場といえど仮に国の代表としての顔を与えられているだけで、ドイツの連邦大統領やアメリカ大統領などのような強い絶対的な立場があるわけではないため(※その選抜も運営もどこまでも偏って特出した権力を絶対に持たないように工夫されているほどである)、あくまでスイス国内に向けてのささやかなスピーチと思しき場面に見えるこのシーンでの彼女の発言がそこまで重たい意味を持つようには私には思えない。このため、自分に心地よい発言を言われてその意味を実際よりもかなり重たいものであるかのように捉えているようにも見えてしまう。この保守派がスイスの独立的立場、旧来的なスイス史観に重きを置いていることはここに至るまでに充分伝わっていたことではあるが、ならばカントンごとに独立した立場にあるというものも絶対に譲れなさそうなものだと思うのだが、そうした立場でありながら、まるでスイスを代表した絶対的な発言者であるかのように連邦大統領の発言をこのように重要視しているのはおかしみも感じさえしてしまうほどである。とはいえ、本ドキュメンタリーではいささかこの辺りも端折りの度合いが強すぎて、このように受け取っていいのかは分からない次第である(とはいえ、そのように受け取れるような構成にはしているのだろうなあとは思いもする)。
また、次項の連邦大統領のインタビューから見える彼女の志向からも考えるに、そこで彼女が彼の思想にとって都合がいいことを言っているとも思われず(2015年当時のスイスの歴史観をめぐる争いを意識している話をしたらしい様子は窺えるが、むしろどっちつかずの無難さがあると思う……)、やはり、少なくともこのドキュメンタリーを観るだけでは彼の意図は掴みかねるものになっているような気がする。なんならば彼女の発言はむしろ都合良く過去を捉えようとする(本ドキュメンタリーにおける彼のような)立場をこそ批判しているようにも見えさえする。よく分からない。

連邦大統領へのインタビュー

 以下に発言を拙訳で全て引用しておく。どうやら2015年当時のスイス史観を巡る争点にも触れてはいるようだが、あくまで彼女が重点を置いているのはスイス国内で吹き荒れた宗教戦争での争いの一応の落着点となる19世紀以降(=1848年憲法成立と現在の連邦制の土台の完成以降)のことなのではないかと思われる。
少なくとも、現代の歴史学がどのように過去を振り返るかということよりも、単に、19世紀当時の歴史観では過去の捉え方や現実がどのように意味をなしていたと言えるかだとか、その程度の意味に留まる範囲で慎重に発言しているような気はする。
あくまで、モルガルテンやマリニャーノなどで暴力的に事を解決してきたことから今に続くわれわれは19世紀を契機として脱却したのだという旨のような気もする。ただしこうなるためには神話化された過去は必要だったという話をしているだけというか。あくまでも現代の保守派の考えを全面的に支持はしていないのではないかと思う。とはいえ、ここも話の前提が本ドキュメンタリーの中では端折られてしまっているのかもしれない。意図を掴みかねるものである。

 

Sommaruga

国のために神話になることは重要なことです。
私たちは自分たちのことについて熟慮する必要があります。我々のアイデンティティーとは何であるのかということを。
我々は一体どういったものになったのでしょうか。今日においてはどういう存在であるのでしょうか?
どういったものをスイスの外側はもたらしたのでしょうか?
この場にそれらに与えられたマイルストーン(※1)があります。これにはたくさんの重要なことが存在しており、例えば、1848年に連邦国家の基礎ができたことや、1891年のゲルマンの部族法の発展などがあります。養老遺族保険は──社会的な労働もなしに、いかにしてスイスに存在できるものでしょうか?
ここにマイルストーンが存在するのです。
これらは戦場において発生したわけではありません。人々は確かにそれに関することで戦いはしました。ですが、それは(武器を用いたものではなく)政治的に(行ったもの)であり、投票用紙を武器とした戦いだったのです。

 

 また、ここでも「神話」という言葉や、「我々はどこへ行くのか」などの主題が取り込まれている。

 

※1 マイルストーン(=標石)。転じて「発展の一段階を示す事件(参考:『独和大辞典』小学館)」を指す言葉。特異点の意味合いで捉えてもいいだろう(たぶん)。

ウィーン会議(00:43:23~)

 「会議は踊る、されど進まず」で言うまでもなく有名な1814~1815年のウィーン会議はスイスにも強く影響を及ぼしたものである。この会議は参加している諸国の利害対立や思惑が絡み合いながらもヨーロッパ各国の勢力均衡が図られたものでもあった。ここでの主題はその辺りに関する背景知識を強く求めた上で成り立っているものである。例によって本ドキュメンタリー内では説明らしい説明はされない。

ウィーン会議

 ここではナレーションがしごくざっくりと触れるだけである。現在のスイスに直接関係してくるようなことの多くはこのウィーン会議で確定したものになったという旨の説明がなされる。ナポレオンの支配が崩れ、ヨーロッパとスイスは自国の領土の構造を手に入れ、そしてまたこの会議に参加した国々によってスイスは中立の立場でいることを求めるということも決定した。スイスはこの長い会議の果てにいくらかの領土の変化はありながらも、こうして確定されたことによってもはや他国からの侵犯の脅威への不安が拭われることになったのであるのだと。(※1)

 引用される映像では、ウィーンであらゆる時代において大規模な世界平和会議が開かれてきたということが言われている。

 

Simonetta Sommarugaについて:

引用されていた動画は「30.11.1965(に撮影された映像フィルム)」としか紹介されず、詳細不明。もしかしたら関係がありそうなものを挙げておく。

  • 『SRF』-「Antenne vom 30.11.1965」(※スイス国内でのみ閲覧可能)(最終アクセス日:2021/07/21)
  • 『SRF』-「Antenne vom 30.11.1965」(※スイス国内でのみ閲覧可能)(最終アクセス日:2021/07/21)

 

 以降の主題に関係するところもあるので、ナレーション発言箇所の一部の拙訳を引用しておく。

 

Winzenried

1815年のウィーン会議において、〔中略〕この友好的な合意で示されたことは、しかし、同盟地域の南部(の一部)を失うということでもありました。
とはいえ、新たに獲得されたのはジュネーブ、ノイエンブルク、ヴァリス〔※通常、ヴァレー州と呼ばれるが、これはフランス語での読み方。ヴァリスはドイツ語での読み方になる〕でした。

 

※1 簡単に補足しておくと、大まかに言って現在のスイスにあたる領域は1798年にナポレオンによってヘルベティア王国としてまとめられ、中央集権的な国家体制を目指して憲法も作られた。ここでスイスは連邦国家として樹立されることになった。1803年にはこのヘルベティア王国は崩壊し、カントンごとによる同盟関係によってまとまる方向性が復活する。この時に混乱が起きもしたが、この時の混乱はナポレオンが調停した。それからナポレオンが没落したのちに1815年にウィーン会議が開かれ、スイスの場合は、その国土が調整された上でその中立性が認められるに至るのである。それで上述したような宗教対立やら連邦制の確立やら憲法規定やらがいろいろあって現在に続いていくことになる。本ドキュメンタリーはそのへんのことも全く触れないで話を進めているが。本ドキュメンタリーはウィーン会議に(特に説明もなく)話をまとめすぎているきらいもある気がする……。もっと事は複雑に入り組んでいるのだが、これもある種の「神話化」ということなのだろう。

ヴァリス州(00:44:44~)

 撮影場所はウィーン会議によってスイスの領土として認められるようになったヴァリス州(※フランス語だとヴァレー州と呼ばれる。ヴァリス州と読むのはドイツ語)のどこか。ヴァリス州はほぼ中央(※Pfynwaldの辺り。Pfynwaldについては後述)を境にし、西側がフランス語圏、東側がドイツ語圏になる、一つの州で二言語を公用語とする地域である。ちなみに、一つのカントンで複数の言語を公用語とする場所は他にもいくつか存在するが、めずらしい土地だとは言えるだろう。
 ヴァリス州は、フランスと、スイスの主だったカントンとの間で板挟みになる場所に位置しており、どちらかというと特にフランスとの関係性を主に歴史上に残しながら紆余曲折を経て現代に至ってきたところがある。他州同様に宗教革命からの対立なども吹き荒れたが、このヴァリス州の場合はさらに州内部でも対立が起き、二分化されたりもしている。対立の際には、そこに周辺の州やフランスなどが関わってきたりと(1799年には、アッパーヴァリス=東側ヴァリスはフランスに敗北した歴史があったりもする。Pfynwaldの戦い。これによる周辺の被害は甚大なものであったようである)、保守派のアッパーヴァリスに対してリベラルなウンターヴァリス(=西側ヴァリス)だとか、とにかく何やらごちゃごちゃとしてきたのがヴァリス州なのである。19世紀からは州から他国へ移民が大量に出たり、また逆も起きたりと、こうした移民に関する問題でも重要な土地でもあるようである(基本的にスイスの各州は移民に対して厳しいが、ヴァリス州は寛大なほうだったりもする)。この移民問題にも関することではあるが、現代に至るまでスイス国内でも際立って経済面、福祉までもが悪い方向に偏っている州でもあるらしい。女性差別問題でもスイスの中でも特に変化が遅れていた。
ヴァリス州の歴史については日本国内では知ることが難しいと思われるが、本ドキュメンタリーはやはり背景の説明をすっ飛ばしまくっている(筆者も理解が追いついていないところのほうが多いため、非常に困った)。本ドキュメンタリーの締め近くに位置し、重要なものとして扱われているのは分かるが、そんなわけで、あまり私は他の箇所以上に輪をかけて消化しきれていない章にもなっている。
 とりあえず、ヴァリス州は他の州よりも目立ってさまざまな問題を抱えていた。その地理や文化の特徴もやや特出したところがあり、ヴァリス州とスイスの関係も決して良好なものだとは言えないはずであり、ヴァリス州内部間においてもその関係は等しく良好とは言えないはずである、くらいの前提でこの箇所は観た方がよい。

 

 この主題が本ドキュメンタリーにとってどういう意味を持つのかというと、大まかにまとめれば、スイスのカントンとして存在はしていても親スイスという立場に立つものばかりではないということであろうし、過去を無視し、州内(もしくはスイス内)での支配・被支配関係や格差の類を無視して権力を持つ側が自分に都合のよい解釈をしてものごとを捉えている暗部の存在の表明といったところでもあろう(マジョリティー、マイノリティーとかいうふうに言い換えることも可能かもしれない)。本ドキュメンタリーもドイツ語圏スイス人を対象としているものなのだが、スイス国内で最も勢力があるのがドイツ語圏スイスであることも意識の端に置いておくべきだろう。上記までに主に保守派を通して見てきたような(半ば創出されただけの)スイス内部の繋がりの脆さというか、その破綻をヴァリス州を通して綻びをあらためて角度を変えて突く内容になっているのだと思われる。

 

ヴァリス州について:

  • 『HISTORISCHES LEXIKON der SCHWEIZ(HLS)』-「Wallis」(※本文ドイツ語、他言語版あり)(最終アクセス日:2021/07/21)

東西境界線へ

 取材場所はヴァリス州の中間あたりに位置するPfynwaldにある屋外のどこか。Winzenried氏はAnthamatten氏と共に、そこに立つ言語の東西境界線を目指しているが、この石碑がどこに建てられているのか調べられず。2人は植物の中を通り抜けるようにして奥深くに隠されているように立つ石碑に近付く。

 

Pfynwaldについて:

2人が近付いた石碑は、1799年のPfynwaldの戦いの後にフランス側が戦勝記念として建てたものだと思われる。
石碑の場所が分からないので、MAPは単にPfynwaldの位置を示しているだけにしている。

  • 『HISTORISCHES LEXIKON der SCHWEIZ(HLS)』-「Pfynwald」(※本文ドイツ語、他言語版あり)(最終アクセス日:2021/07/21)
  • 『Landgut Pfyn AG』-「Mittelalter」(※本文ドイツ語、他言語版あり)(最終アクセス日:2021/07/21)

 

Hermann Anthamattenについて:

ドキュメンタリー上では彼のことを歴史家であり作家でもあるというような紹介の仕方をしているが、ネット上では調べる限りでは歴史家というよりもヴァリス州に拠点を置いて演劇関係の何かをしているプロデューサーとかそのあたりの職種らしい?

  • 『Linked in』-「Hermann Anthamatten」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/22)
  • 『1815.ch』-「Blick uber den Lotschberg(記事公開日:2019/03/07)」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/22)

 

 上記の石碑前でAnthamatten氏による解説が行われる。Winzenried氏がAnthamatten氏に、何のためにここまで来たのかを尋ね、彼がそれに答える内容。かれはこのPfynwaldがヴァリス州の言語境界線上に位置することを語る。彼はこうしたこの場所の状態を言うならば、遮断機のように言語境界を築いているといった表現をしている。そして、この場所が重要となったのは前述したPfynwaldの戦いにあると語る。それからその戦いに関する説明をざっくりと行っているのだが、いかんせん私がそこに疎いので、ほとんど言っていることは分からなかったため、さらにここにまとめるのが難しいため、取りあえず該当する説明部分の拙訳を(他の箇所以上に拙いのであるが)全て引用しておく。なお、本ドキュメンタリーは基本的にあらゆる説明をすっとばす傾向にあるが、この箇所に関してはかなり説明が丁寧になされていたと言える。

 また、途中で石碑にラテン語で書かれている箇所がアップされるが、映像越しでは微塵も読めなかったので、それについてはこちらでも翻訳は省略する。

 

Anthamatten
のちにこの場所(※もしくは地域)は歴史的に重要なものになりました。1798~99年においてこの地でフランスに対する戦いが起こったことによってね。
ニートヴァルデンの人々は、グラウホルツ〔※Grauholz。地名。ベルン州に属する。ここで起こった戦闘がある〕の近くへとベルンの人々を導いたのです。
この地でオーバーヴァリスの人々はフランス人たちへの彼らの戦闘を起こし、そうして率いていたウンターヴァリスの人々と共に敗れたのです。
一部の、隷属下にあって政治的な自治を持たない地域〔※Untertanengebiete。どうやら、スイス独自の歴史用語のようである〕はこれによって解放されることになりました。

 

Winzenried
オーバーヴァリスはウンターヴァリスを抑圧していましたよね。

 

Anthamatten
ええ。あらゆる同盟のようにね〔※各州は全て等しく一つの国家のように存在できたわけではなく、「共同統治」として他州の支配下に置かれているようなカントンも存在したので、こうしたことも含めての発言であろう〕。
彼ら〔※同盟諸州〕はあらゆるものに対して常にそのように口喧しく忙しなくそういったことをしていたわけではありませんが。
人々はUntertanengebiete〔※上記参照〕を持つことにしたわけです。

 

Winzenried
──その大多数が臣下になったわけですね。

 

Anthamatten
オーバーヴァリスはウンターヴァリスをUntertanengebiete〔※上記参照〕のようにしました。
連邦内閣官僚のCouchepin〔※1991~99年に連邦事務総長だったフランソワ・クシュパンのことか。ヴァリス州のマルティニー生まれ〕は繰り返しこのことを重視していたわけです。
オーバーヴァリスは数多の権力を持つほうへと進んでいたのです。
これが吸収された。臣下〔=支配関係〕を反映したものが今日でもいまだに影響を与えているのです〔※この辺りの発言内容は読んでてよく分からなかったが、とにかく、1798~99年の戦いの影響でできたヴァリス州内(ないしスイス)の支配・被支配関係が今に至っても解消されていないということかと思われる〕。
これが今日に至るまで脳幹の中に碇を下ろしていることなのです。
人は言いました。「おお、そうだな、こいつはよろしくない」。
私たちのオーバーヴァリスは時折……気分を害していました。(遠い昔の)歴史的な事情によって自分たちが紳士として扱われることがないような時にはね。

 

Winzenried
──そのようにあなたは感じたと?

 

Anthamatten
私は細やかな物質〔※Feinstofflich。目に見えない物質。英語のVibrationに相当するかと思われる。ここでは過去の暗黙の了解や空気を読むという意味の空気、うそっぱちなできごとのようなもののことを指しているのだろう。〕以外のものを掴みとってから事実のほうへと向かいますよ、ええ。
〔石碑の文字のアップ〕
ここより下部にある所に一つのラテン語の格言があります。(ここに何が書いてあるのか)私には判読することはできませんがね。
どうやら、人々は警戒しているということだとか、外国からの影響によって戦争のほうへと向かわざるを得ないだとか(そういうことが書かれているようですね)。

 

Winzenried
つまり、人々は外部から身を守るためにそうした方向へ向かったということですね。彼らはただそうした悪いものに突き動かされただけだったと。

 

Anthamatten
──人々は、自由のためにはそうなる必要があるときがあります。

 

Winzenried
彼らもそうであったと?

 

Anthamatten
私は誰一人として知りはしませんよ、これに対して逆らったような人物はね。

 

 ここでニートヴァルデンが関係してくることからも、上述でKeller氏がニートヴァルデンをスイスにとっての心室であるという表現を用いたのも、ここにも関連してくるのかもしれない。

 

 要は、まとめられる範囲で上記の引用箇所をまとめると、スイス側に位置するドイツ語圏のオーバーヴァリスは昔からウンターヴァリスを一方的に支配しており、戦争にも巻き込んだりもしたし、この不平等な支配関係は現在に至るまで残り続けている問題があるという話であるようだ。

歴史家(Anthamatten氏)へのインタビュー

 取材場所はヴァリス州の町のどこかのお祭りの様子を映す。ポスターの文字がドイツ語のみであることから、東部のほうに位置する町なのだろう。ナレーションは、上記のようにヴァリス州の歴史には難しい問題があるにも関わらず2015年現在のこの場所ではヴァリス州全体の同盟加盟の200周年を全面的に祝うような態度を見せているのである、と指摘する。Anthamatten氏は町の様子をへんてこだと言って笑う。

 町の中には200年前、スイスはヴァリスに夢中になった。とドイツ語で書かれているポスターがあり、2人の会話から、こうしたポスターが町中にあるらしいことが窺い知れる。Winzenried氏も、これは事実を一切踏まえない馬鹿げたものだと指摘し、なぜ現在ではこのような売り出し方をするのかと彼に尋ねる。これに関するAnthamatten氏の返答は、筆者からすればスイスに限らない範囲のことも言っているようなものでなかなか耳が痛いというか、同意を抱くものだった。個人的にはそういう意味でもかなり面白く感じた箇所なので、拙訳で引用しておく。もちろん、本ドキュメンタリーが表現しようとしているところの肝に当たる発言でもある。文字装飾はこちらが手を加えたものである。

 

Anthamatten
こんにちにおいてわれわれが祝っているようなものに歴史(を踏まえたようなものなど)何一つとしてありませんよ。そうではなくて一つの伝説がある(だけなのです)。

 

 続いてAnthamann氏は、1815年のウィーン会議の議題に上がっていた国土問題についての俎上でスイスのためにヴァリスの土地が陽の下に出され、ヴァリスのあり方は正当化されてしまった(※厳密に彼の発言を拙訳で引用すれば、(彼らの言う)真実とは、このヴァリスが純粋に汚れないものとして追い求めたものになることなのです。)のだと説明する。また、この時にオーバーヴァリス側はこれまで通りの立場を守ろうとしたが、当然ながらウンターヴァリス側はそれを拒む動きがあったのだという。

 

 Winzenried氏は彼に人々が来歴を知る必要の意味を尋ね、彼は以下のように答える。ここも拙訳の形での引用になる。文字装飾はこちらが手を加えたものである。この箇所も上記の引用と同じく、かなり個人的には刺さった箇所でもある。

 

Anthamatten
あくまで私の考えなのですが、それはいつだって極めて重要なことだからですよ。
私はどこから来たのか、私は何者なのか、私はどこへ行くのか?〔※ゴーギャンの絵画作品のタイトルをもじったもの。「我々」が「私」になっている。〕」
これは哲学的な三つの偉大な問いですよ。無二の根源です。
こんにちにおいて増長し地球規模にも及ぶようなこの世界では、ますます田舎に(意識が)向かうことになりますよ。ひょっとすると自分たちにはなじみのないものを感じ取る(ことができるかもしれないでしょうから)。それから、(焦燥的に)求めるようになるわけです……。

 

Winzenried
……(拡大された世界の中にあって自分たちのルーツとして求められるような)単純明白で理屈抜きの出来事を?

 

 また、ここに至って明確にゴーギャンのパロディーがはっきりとした形で発言されている。この哲学的問いを抱えて人々は(都合のいい)過去を見出すために特に地方に目を向けたのだという。

政治家(Freysinger氏)へのインタビュー

 場所は代わり、Oskar Freysinger氏へのインタビューになる。冒頭で彼が(多分自作の)歌を歌っているが、本ドキュメンタリー上の範囲で出てきた歌詞の拙訳を以下に引用しておく。

 

♪俺は愛しい土地に引き返して探したんだ。
♪どこかの山の下に俺のゆりかご〔※転じて「発祥の地」を指す〕があるんだ。
♪遠い昔からずっと昔のことを乗り越えようとしていた。だけど、一度だって本当にそいつが無くなることはなかった。

 

Oskar Freysingerについて:

ヴァリス州のSidersの生まれ。ほぼ言語境界線に近いといえるが、西部のウンターヴァリスに含まれる地域だろう。スイス人民党参事院/人民連帯組織〔※VSとあったので、多分、大戦後に旧東ドイツで組織された組織〕に所属しているとのこである。

  • 『Das Schweizer Parlament』-「Oskar Freysinger」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/21)
  • 『CANTON DU VALAIS KANTON WALLIS』-「Oskar Freysinger」(※本文ドイツ語)(最終アクセス日:2021/07/21)

 

 彼は自分がカントンを構成する人間うちの一人であることをまず喜び、それがあるからこそスイス人であるという要素が加わるのだと語った上で、自分がスイス人であるというこに喜びを覚えていると発言する。彼はウンターヴァリスの生まれながらもスイスに偏ったヴァリス州の人間になれることを許諾している。曰く、スイスに対する尊敬の気持ちから、私は許すことができるのです、ヴァリスの人になることを。その上で、カントンは独立した状態を守り続けるべきだし、スイスは今のような連邦制を保つべきだという政治的な立場を述べる。彼は支配下に置かれたウンターヴァリスの人間ながらも、その上で保守的なスイス人と同じような意見を持っているようである。

 そして、スイスがもしこの均衡を崩してしまえば、西部スイスのほとんどの数(※多分、ヴァリス州内の西部側の町村というよりかは、西部に属するカントンのことか?)がフランスと結び付くことを求めるだろうと語る。つまり、スイスが現在のようなある種の孤立を止め、EU迎合などのほうへと進んでしまったらこの国はむしろ瓦解すると考えているらしい。だからあくまでもヨーロッパとは友好関係を築くだけで、双方の経済的な利益の均衡を図りつつ接触するべきだとする。政治的にヨーロッパに依存するようなことになってはならないのだと。こうしたことをウンターヴァリス側の人間が発言していることがここでは重要なのである。

ヴァリス州についてのキャサリンのまとめ

 ヴァリス州の撮影を通して、もはや問題は内部関係に向かうのではなく、スイスとヨーロッパの交際関係にあるのであるというようにまとめている。
 つまり、内部の思想対立だとか歴史観だとか何だとかよりも、ヨーロッパとの関係をどう結ぶかというところに問題があるのだという括りなのだろうが、要は本ドキュメンタリーで既に見られてきたものに話が堂々巡りしている印象を私は受けた。そもそもその現在の対外関係が(※あくまで本ドキュメンタリーで描かれてきた範囲のもの)きっかけになって人々の対立があったわけで、歴史観の食い違いだとかもあくまで本ドキュメンタリーにおいてはそことの関係から話を進めていたのに何を言ってるんだとはやや思うところではある。私感である。
とはいえ、あくまでここのまとめは、様々な対立や関係が一つの州の中で生まれてきたヴァリス州においても、そうした対立はさておき、慎重な対ヨーロッパ関係が求められているのであるという話になっているのではある。そしてスイスは今やその西部へとスポットライトが移っているのだと。

スイスの現在とおわりに(00:49:46~)

Antmatten氏へのインタビュー

 再びAntmatten氏へのインタビューになる。彼もまた西スイスに注目しており、現在の自分たちは西スイスに押し込まれるようにしてこうした体験をしているのだと語っている。そしてまたこの点は頻繁に経済問題の形で表に出てきていて、このことからもこの国の内部のつながりが非常に壊れやすいものの上にできているのだといったことも語っている。
 これはあくまで筆者の言葉でまとめているだけだが、つまり、同盟発生やウィーン会議、精神的国土防衛などを経て一つの国としての形こそできていたし、それを守ろうともしてきたが、砂上の楼閣のようになってしまっているのが現状であって、その綻びがこんにちにこうした本ドキュメンタリーを通して描かれてきたような新たな形(もしくはただ形を変えただけで)になって浮上しているということなのだろう。

国歌

 国内のどこかでスイス国歌(=「Schweizerpsalm(スイス人の讃美歌)」)が歌われる様子が少しだけ映される。ここで映っているのは1番の最初の部分である、Trittst im Morgenrot daher, / Seh'ich dich im Strahlenmeer,(拙訳:朝焼けの太陽がこちらへと向かってくる中を歩み出し、 / 私は光線を放つ湖のうちにあなたを見出す、)のみ。
スイスのこの国歌自体がそもそも成り立ちが特殊であったり、実はスイス国内ではそこまで認知度がなかったりするようなので、多分そのへんの事情も含めてのここでの引用でもあるのだろう。

 筆者は現在のスイス国歌を翻訳した記事も作成しているので、よければこちらもご覧ください。国歌関連の参考サイト等も少ないですがまとめています。

 

 

 

 余談ながら少しだけ補足しておくと、この引用された箇所の「Morgenrot(朝焼け)」と「Strahlenmeer(光線を放つ湖)」のところで本ドキュメンタリーにおいてはモルガルテンをなんとなく連想しやすいようにしているのだと思われる。モルガルテン(Morgarten)は「朝の庭」といった程度の意味の言葉で、「Morgenrot」でまず第一に連想が働き、またモルガルテンの戦いの傍には湖が広がっていることから(旧来的なモルガルテンの戦い史観ではこの湖が直接重要な役割を果たしている)「Strahlenmeer」で次に湖を連想できるようにしていると思われる。スイス国歌にそういう意図があるとまでは言わないが、少なくとも本ドキュメンタリーにおいては引用するにあたってタイトルにもあげている「モルガルテン(の戦い)」を連想するようにしているのだと思う。一つのネイションを表現するところの代表である国歌というものとモルガルテンの戦いとを繋げて、本作の締めくくりとしたのだろう。たぶん。

しめくくり

 ここもしごくあっさりとした言葉で語られるだけで終わる。最後のまとめにあたるので、全文の拙訳を引用しておく。

 

ナレーション
アイデンティティーへのこの問いは、根本的な来たるべき未来にある道を目指すためのものです。
この自らの歴史に一つの説明(ないし方向づけ)を与えることができること。
それが(できれば)ゆえにこそ、対象を確かに知ること(に繋がるのです)。どういった歴史がどのようにあって、なぜそれを伝えるのか(を理解することによって)。

 

あとがき

 あとがきはフリーダムタイムに突入するため、本音駄々洩れでお送りします。

 

 いかがでしたでしょうか!!!!とか言いたくもなる気分である。筆者は本ドキュメンタリーの視聴を翻訳しながら観たのだが、その作業の完遂でまず半年、このひたすらのまとめ作業でさらに1カ月かけてきたので、虫の息である。視聴を進める過程でも、「よく分かんないドキュメンタリーだな……」と思っていたが、その後何度も翻訳文を読み返したり、動画を観返したり、まとめを書き、その編集・校正を繰り返す中でも、「よく分かんないドキュメンタリーだな……」といった感想がぶれることなくやってきたので、疲労困憊である。このへんの愚痴はTwitter上でさんざんしたので、わざわざここでは繰り返さないところではあるが。
 モルガルテンなどは神話であるのか?が問いの中核にあるはずの本ドキュメンタリーではあるが、特にここに答えらしい答えも見出せず、ぼんやりと、歴史観の形成の大切さみたいなものを語るだけであっさりと終わるのだから、こちらとしてはエエッ?!って感じでもあった。せやなではあるのですがーーーーー!!!
歴史観の形成が長きにわたってどのようにスイス国内に影響してきたのか、もっとそこに焦点を絞って構成のしようもあったと思うのだが、どこを見ても話をぶっとばしまくっているので、さようでござるかという感で胸がいっぱいである。
とにかく本ドキュメンタリーは、この内容ならばこういった話もするべきではないか?というものを深掘りするなり取りあげたりもしないまま話が進むので訳が分からない。この辺りは適宜最低限の範囲でツッコミは入れてきたが。
また、Maissen氏の著作内容や思想が根底にあるらしいのに、それについての説明も一切ないので、何を前提としているのかが全く分からないので、この構成の意味も掴みかねるものになっている。少しは説明してほしかったところである。

 

 歴史感覚という意味でマトモだったのは教師や一部の子供くらいなもので、すでに教育の場のほうは中庸を目指して自由に子供たちが歴史を学んでいるというふうに筆者は捉えたため、そういう意味でも、ここでそういうふうにまとまっているのに延々何をやっているんだ?という思いもあったりした。

 

 また、まとめ中でも触れたが、ヴァリス州のところでAnthamatten氏が現在の人々の歴史認識の底の浅さを語る場面は本当に好きだ。というか、現代日本を振り返っても通じる内容であるため、ほんまそれなという感で胸がいっぱいであった。歴史的事実などはどうでもよく、そこと齟齬があろうともおいしくそれをいただくことしか考えていないというのはよく見られるものであると思う(※歴史に限らないが)。単純明白なものをスナックのように消費することしか考えていないという。例えば、そこらへんの観光地を眺めてみるだけでも、そうしたものは窺い知られるだろう。筆者の出身地は京都であるのだが、この辺りは本当に身に沁みているところである。
こうした感覚がスイス内部に濃く影を落としていること、人々の歴史認識や思想が偏っていること、その視野狭窄さ。こういう現代の問題を僅かながらにでも知れたことが、筆者が本ドキュメンタリーを視聴して良かったなあと思った唯一の点であるとも言えよう。