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【狼の口】関連資料『ドイツ伝説集』(グリム兄弟)所収「Herzog Friedrich und Leopold von Österreich(オーストリアの公たるフリードリヒとレオポルト)」紹介と伝説の時代背景について

記事作成日:2021/11/15
最終更新日:なし

 

 本記事では、グリム兄弟の『Deutsche Sagen(ドイツの伝説集)』所収「Herzog Friedrich und Leopold von Österreich(オーストリアの公たるフリードリヒとレオポルト)」の拙訳を掲載しています。既に日本語訳が書籍の形で出版されているものですが、本文を全文紹介したいため(※ごく短い話なのではあるのですが、著作権に関しての決まりごとに関してやや不安なところがあるため、既出の日本語訳の引用は憚られる)、本記事では拙訳を頼ることとしました。原文はもちろん現在では著作権の問題はないものなので、こちらは本記事の中で全文引用しておきます。
これに合わせて『ドイツ伝説集』に関する解説と取り扱う話についての歴史的背景の解説なども行っております。
 また、本記事は漫画『狼の口』の一ファンとして11月15日のモルガルテンの戦いの日に合わせて作成したものであり、上記の伝説以外にもこの漫画作品に関連する他の伝説についての話題も取りあげていたりします。
以下、「である調」でお送りします。

概要

本記事について【必読】

 グリム兄弟といえば日本国内でも言うまでもなく圧倒的知名度を誇る兄弟だと私は認識しているが、彼らの著作は主に『グリム童話』としてまとめられているものばかりが注目されている現状にあるのではないかとも思う(※私見)。『グリム童話』なども口伝された民話の類とされるものを蒐集したものではあるが、これとは少し異なるものに、『ドイツ伝説集(Deutsche Sagen)』という著作も彼らは著した。これは文字通り各地の伝説を蒐集してまとめたもので、基本的にごく短いものが大量に収録されているといったものになる。
 さて、この『ドイツ伝説集』だが、あまり知名度がないのか、かなりがっつり漫画『狼の口』(久慈光久・著)の内容にも関連するといえる伝説が数多く収録されているのにも関わらず、ファンの間で話題になっているのを(私が観測してきた範囲では寡聞により。してたらごめんやで)見かけたことがないため、本作においてもある種の大きな記念日といえる11月15日のモルガルテンの戦いの日に寄せて、たまには何か記念日に合わせたことをしても良いのではないかと思い至り、こうして紹介記事を作成しようかなと思い立った次第である。
 こうした前提から本記事でのメインコンテンツとして特に選んだのが、第503話として収録されている「Herzog Friedrich und Leopold von Österreich(拙訳:オーストリアの公たるフリードリヒとレオポルト)」である。この伝説に関しては原文と拙訳全文を記事内に掲載することとする。ついでに主にこの伝説の歴史的背景を中心にしての解説にもかなりの文字数を割いた。ただし、『ドイツ伝説集』の解説にしろ、これについての解説にしろそうなのだが、歴史学にしろどんな名前の学問として専門化されているにしろ、何かひとつのことを対象としたところで周縁的にどんどん背景となるような前提知識は広がり続けて限りがないものであるため(=突発的に周囲と切り離された上で何らかのコトがただ起こるわけがない。どれだけ対象の分野外のものだと一見思ってしまうようなものにしても繋げていけばいつかは繋がるだろうし、ざっくりとだけ私見を述べれば、そうした限りない広がりを認識するため、またはディティールを見出し、それに対する考えを深めていくためにも専門知は存在するのだと私は思っている。つまるところ、学問体系は完全に分断されたものではないし、狭い範囲、例えば歴史学といわれるものに含まれるかなり狭い範囲の特定のトピックを取るにしても、多分、よほどでなければいつの時代の歴史とも往々にして分断されてはいないものなのである。)、本記事の読者が平均的にしろどの程度の前提知識への理解があらかじめあるのかは不明であるが、ここでは、ある程度見切りを付けながら、またはある程度の筋道は示しながら進めていくこととする。よって、わざわざ書くことでもないかもしれないが一応念押ししておくが、あくまでここでは基本的なことを足早に解説するだけであるし、それにしたって何らかの一面を取りあげて説明しているに過ぎないということを読み手には認識して目を通してもらいたい。
 また、上述の通り、この著作には『狼の口』に関わる伝説が多数収録されているため、特に関連するといえるだろう伝説の羅列と対応話数の表記などもざっくりと掲載しておく。これらに関してはいちいち原文・拙訳記載していると(私の作業量が果てしなく)大変なことになるため、あくまで紹介しておくのみに留める。
 本書は、ドイツ語原文のものであればネット上で容易に誰でも閲覧できる環境にある他、日本語訳に関してのみ取りあえず挙げておくことにするが、翻訳し出版された書籍もあるため、国内にいても幸いにも手に取って読みやすい環境にある。折角なのでぜひこの著作を実際に読んでいただけると幸いである。本件と関係なく全体的に面白い本であるため、興味を持っていただければと思うばかりである。

『ドイツ伝説集』とは

解説

 いわゆる「グリム兄弟」として知られている、ヤーコプ・グリム(兄)(1785-1863)とヴィルヘルム・グリム(弟)(1786-1859)が著したものである。彼らの個人史および著作については時代背景などの歴史面が色濃く反映されて交差しているようなかなり濃厚なもので本作の説明をするのにも関わってくることではあるのだが、恐ろしく話が長くなるためここでは割愛する。歴史を中心とした学問体系の大河の要所にも数々深く食い込みながら関わっている人たちであるので、これについても興味があればぜひ各々で調べてみてもらいたいばかりである。
 1812年、『ヒルデブラントの歌とヴェッソブルンの祈禱』と、有名な『グリム童話(ないし「子供と家庭のメールヒェン集」)』としてよく知られている著作の刊行を始めたところから彼らの著作活動は始まり(※『グリム童話』はその後も第7版に至るまで版を重ねるごとに話数を増やしていく。全2巻。1巻目の出版が1812年、2巻目が1815年。第2版発行以降は全2巻としてまとめて出版するようになる。)、次いで『古エッダの歌』(1815年)ときてから、この『ドイツ伝説集』(全2巻、1816年および1818年)が出版された。その後も彼らの学者としての著作活動は続くが、やはりここではその列記についても割愛する。彼らは若い頃の著作に関しては連名で発表しており、『ドイツ伝説集』もそれに含まれている。
 ドイツの領邦国家だったヘッセン王国で生まれ育ち、ここで数々の職に就いて生活していた彼らではあるが、こうした初期の著作を刊行している頃の彼らの国は激動の時代にあった。ざっくりとだけ述べておくが、1806年にはこの国はナポレオンの支配下にあったり、1815年にはウィーン会議によって領土が大きく変化したりしていたのである。
こうした中で2人がこのようにナショナリズム色もあるといえる著作群を(もちろん学問として真摯な態度は崩さなかったが)刊行していたということは一つのポイントではあるので書き添えておく次第である。
 『グリム童話』が伝承されたメルヒェンの再話作品であることからもうかがえるように、同じ口承文芸としてこの『ドイツ伝説集』と『グリム童話』とはある種の姉妹作といえるのではないかと私は理解している。

 また、ここで「伝説」とはどのような言葉で定義されているのかを『集英社世界文学大事典』から以下に該当箇所を引用しておく(※補足して強調しておくが、あくまでもこの事典での定義はどのようになっているかという話でしかなく、この場では簡単に説明しておくのに引用しておくだけというだけである。あくまでこれは「伝説」というものを定義したものの一例でしかない)。
言うまでもないが、下記は、『狼の口』という作品を嗜むのにおいても多少は参考になるかと思われる分野の話となる。

神話が神々の物語であるのに対して,伝説は英雄や自然や異常事についての短い報告や説明で,ものによっては年月日までが分明で,地名や人名などの固有名詞と結びつき,ときにはその真実性を保証する遺物を指示することによってそれら現存するモノやコトを歴史の中に位置づけようとする文芸,とひとまず言っておく。それほど様式化していず,文芸的な趣としては,リュティによれば,世界は人間に敵対的で不気味で,人間の無力が印象づけられることが多い。

『集英社世界文学大事典』-「伝説」の項目より一部抜粋

ちなみに引用中に出てきた「リュティ」とは、口承文芸研究者として名高いマックス・リュティ(1909-1991年)のことかと思われる。
また、同項目内にて、この『ドイツ伝説集』が、伝説を初めて学術資料として収集したものであるとも説明されている。多くの文献を資料として作成してもいたようである。 この項目の解説は本記事で扱っている内容に関わるだろうものだけでも面白い箇所が多いのだが、あと一カ所だけ特に関係する説明箇所を以下に引用しておくのみとする。

伝説が書承によって保管されることが多いのは,伝説が史実であることをうたい,歴史にすり寄る傾向をもつからである。そこには伝説の管理者の問題もからんでくる。伝説の生成には,多かれ少なかれ,歴史に通じた知識人層の関与が欠かせない。伝承に信憑性を保つために,時に応じて書承から情報が補強され,知識による合理化がはかられては再び口頭の伝統に下ろされ,また書承にすくい上げられては英雄叙事詩などの源泉となる。今日,フォークロリズムfolklorismの名のもとに取り上げられる〈擬態としての民俗〉の問題は,伝説というジャンルにあってはつとに常態としてあったのである。

『集英社世界文学大事典』-「伝説」の項目より一部抜粋

 要点をざっくり述べただけではあるが、『ドイツ伝説集』に関する説明はここでは以上としておく。これも興味があれば本書の翻訳書籍のほかにも関連文献の類などもいくつもあるので、各々ぜひどうぞ。

 

参考文献

  • 『集英社世界文学大事典』-「グリム兄弟」の項目(※この項目の著者は小澤俊夫氏)
  • 『集英社世界文学大事典』-「伝説」の項目(※この項目の著者は君島久子氏)
  • 『岩波 世界人名大辞典』-「グリム Grimm, Jacob」の項目
  • 『岩波 世界人名大辞典』-「グリム Grimm, Wilhelm」の項目

『ドイツ伝説集』の原文テキスト(ドイツ語)、日本語訳書籍の紹介

 最初にネット上で閲覧できる原文といえるドイツ語の紹介を簡単にしておく。ただこれに関してはいくらでも探せばあると言えるため、あくまで簡単に閲覧できるものの一部を紹介するに留めておく。また、その次には日本語訳文献の紹介もしておく。

 

原文(ドイツ語)
最終アクセス日は全て2021/11/08。

 

日本語訳
2021年現在、確実に全訳しているという形で『ドイツ伝説集』を出版しているのは以下の2種類になるかと思われる。部分的な翻訳をしているものならもっとあるが、それらはここでは省く。
※今回、メインで扱う第503話目「Herzog Friedrich und Leopold von Österreich(オーストリアの公たるフリードリヒとレオポルト)」は下巻に収録されている。桜沢正勝・鍛治哲郎訳の場合、タイトルは「フリードリヒ公とオーストリアのレオポルト」という訳になっている。吉田孝夫訳の場合は「フリードリヒ公とオーストリア公レオポルト」。ただ憚りながらも書いておくが、これらの訳は誤りなのではないかと思い、拙訳ではこのようにした次第である。読み方としてはせいぜいが「"Herzog Friedrich und Leopold" von Österreich」となるのではないかなと解釈した。これについては下記の「この話の歴史的背景について」の項目の説明を参照していただければ自ずと理解していただけるかと思う。
※注意:下記、楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンク。
※吉田訳はちょうど本記事作成中・公開直前の2021年11月に発売されたばかりであったため、書籍データベースの登録がまだという現状であった。これに関しては書誌データそのものではなく、検索結果にリンクを貼っておく。

第503話目「Herzog Friedrich und Leopold von Österreich(オーストリアの公たるフリードリヒとレオポルト)」

解説

 不勉強ゆえ、グリム兄弟がどのようにこの話を収集したかとか、この話がどういうふうに伝わっていたのかというような大した説明ができるわけでもないことは先に書いておくが、これを示唆するものとして本記事内の「トラウスニッツ(Trausnitz)城について」の脚注「※2」はそういう意味でも参考になるかと思われる。
 ごく短い話なのであらためてあらすじを書くまでもないのでそうしたものはほぼ省き、ここでは取りあえずざっくりとだけ伝説の直接の時代背景の周辺に焦点を当てての解説もしながらまとめておくこととする。

この話の歴史的背景について

 要はこの伝説は14世紀ごろのハプスブルク家の人物であるフリードリヒ美王(ないし美公)(1289-1330)とその弟レオポルト公(1290-1326)を中心人物に置いた伝説である。ちなみに「美王・美公(der Schöne)」という異名は16世紀から用いられたものである。
 この時代のハプスブルク家は、先代の悲劇(=2人の父であるアルブレヒト1世が1308年5月1日に甥ヨハンに殺害される。この事件は「暗黒の日」と呼ばれるようになった)による家内の激動、皇帝の座をめぐる他家との争い、領地内への対応などに迫られており(※1315年のモルガルテンの戦いなどに見られるトピックもこの視点から言えばそうした流れを汲むもののうちの一つである)、あまり日本国内においては注目されてはいないように思うが(※私見)、予断が許されぬ重大な局面にあった。
強硬的なまでに邁進して身近にまで自身へと向けられる憎悪を育みながらもハプスブルク家勢力を強め、それを基盤とした皇帝権力を完成させつつあった矢先でのそうしてきたこの父親の死に、残された息子たちはとにかく互いに支え合って活動せざるを得ないところまで追い詰められていた。というのも、そもそも父アルブレヒトが殺害されるに至ったのもハプスブルク家内の全権が1人の当主に偏って掌握されるという現状に起因しており、精力的活動を行っていたアルブレヒトに対して各方面が反抗心を培う結果となっていたことによるものだからである。こうした反抗心はヨハンの件からも垣間見えるように当家の発祥地である一帯が殊の外強かったという。残された兄弟たちはこうしたものから発生した(※アルブレヒト死去直後からハプスブルク家への反乱は激化している)しわ寄せとその対応、復讐、反省に迫られた上、森林三邦との争いの対応、当初はまだ反発の強かったオーストリア方面への地盤づくりの必要や、ここぞとばかりにハプスブルク家から遠ざけられてしまった皇帝権の獲得への邁進等々、一族が一丸となって諸々の事にあたる必要があったのである。そしてもちろん、後のハプスブルク家に至るまで強く忌避され続けた身内殺しに直接に関係した当事者たちでもあるのだから、そういう意味でも同じ血を分けた兄弟同士、協力関係にあることを優先したわけでもある。何であれ、問題があまりにも山積みな上に横から横から新たに別の問題が発生したりもして、当時のハプスブルクには輪をかけてとにかくやることが多かったわけである。
 1308年に上記の件で父親である皇帝が死亡したのち、フリードリヒは長兄(※本当は兄にルドルフ3世がいたがこの時には既に死去していたためこのように書いておく)としてハプスブルク家の中心を担うことになるが、弟のレオポルトと共同統治という体制を取ってこの役目を負い、フリードリヒが新拠点といえるオーストリアを統治し、レオポルトが古くからの拠点であるアルプスの統治を行うという態勢を取った。父アルブレヒトの次に皇帝となったハインリヒ七世(ルクセンブルク家)とのやり取りやその影響など語るべきものは多いし結局は本件に関連してくる部分も勿論あるのだが、フリードリヒを取り巻く主な出来事はやはり、彼の祖父ルドルフと父アルブレヒトが戴いてきたものでもあるローマ皇帝の座をめぐってのヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世(バイエルン公)(1281もしくは82-1347)との争いというものが特筆されるものであるとだけ述べておく(※それに、本件に関してはここがメインでもあるため、ここを中心にして話を進めることにする)。ちなみにルートヴィヒの母がハプスブルク家の血筋にあり、故に彼の祖父もフリードリヒらと同じくルドルフであり、つまり彼らはいとこ同士で血縁関係もあったのだが、この皇帝権争いに先立ち既に敵対関係は出来上がっていた後だった(※1)。だからこそルクセンブルク勢力の選帝侯たちに推薦されたりもしたのである。
 1314年の選帝侯たちによる二重選挙後(=つまりフリードリヒ派とルートヴィヒ派で収拾がつかなくなった。当時は単純に多数決による決定ではなく、選挙権保持者それぞれの正当性によって優劣が付けられていた。つまりこの権力の強い人物による投票があるだけで、数では負けていても勝ったりもするわけである。ちなみに単純な多数決で言えばこの時点でルードヴィヒが優位ではあった)から2人の争いは目立って開始することになり、この決着は戦争によって決められることになった。この時に、スイスの森林三邦は、自分たちと同じようにハプスブルクと敵対していたからこそルードヴィヒ側を頼ることにしたわけである(そしてこのルードヴィヒがのちに彼らに自由と帝国直属を認めた(※2))。
 フリードリヒは兄弟たちの中でも特に弟レオポルトと協力し合って共闘を重ねていたのだが(※フリードリヒを皇帝位に就けるための王位要求を仕掛けたとされるレオポルトがかなり闘争に意欲的だったのもあるが、他の弟であるアルプレヒトとオットーとはかなりの歳の差があったのもあるだろう)、戦争開始から8年を経た1322年9月28日、レオポルトの軍勢の到着を待たずに自軍勢力のオーストリア騎士団とハンガリーの支援軍を率いて戦闘を始めた結果、このミュールドルフの戦い(※バイエルン内で発生)によってフリードリヒはルードヴィヒに敗北。捕虜となってしまう。今回扱う話で取りあげられているのもこの事件によったものである。
こうして戦争が一応終わると翌1323年にはルードヴィヒは教皇ヨハンネス22世に承認と皇帝位戴冠についての伺いを立てるがヨハンネスはこれを承諾しなかったりと、いろいろとまたここでもすったもんだがあるのだが(※こうして教会を取り巻くルードヴィヒの数々の対応は彼の行動の中でも中心となるトピックである)、ここではこれについても省略する。ただ、ここでの教皇の態度や皇帝権が速やかに受理されなかったことなどもフリードリヒとの共同統治という落着に繋がることの要素の一つとなった。また当時の教皇はフランスでいわゆるアヴィニヨン捕囚中にあり、ヨハンネス22世もそれでフランスに滞在していた教皇であった。つまりこの時代の教皇権というものがそもそも複雑化していたりなんだりと宗教面も慌ただしい最中にあり、ルードヴィヒもフリードリヒとの和解が済んだ後も1327年頃からは特にここに切り込むべくローマに赴いて事を起こしたりとしている。翌1328年にはフランスの教皇を無視し、ローマ市民から皇帝冠を授かった。数カ月後にはあらためて戴冠式を行いもしたが、この時には対立教皇として擁立したニコラウス5世に挙行させたりしている。この辺りの教皇を取り巻く事の動きに関しては世界史という大枠で捉えても重大事項である(※「ローマ皇帝」というものもそもそもそうなのだが)。別記事になるほど濃密なことになるので、ここでは「そこを踏まえて本件は捉える必要がある」という注意のみしておく。また、一応念のために書いておくが、フリードリヒとルードヴィヒの時代に限らず、こうした教皇の現状の影響は諸国に数々の影響を落としているし、彼らの闘争にも直接的に関わってきているものであるともいえる。皇帝権に関しては、フリードリヒの没後になるが、1338年に選帝侯たちが定めた「レンス判告」によって皇帝位の決定に教皇を外すようにしたといった変更があったり(=選帝侯らによって選出されたドイツ国王は教皇の許可がなくても神聖ローマ皇帝となれるとしたということで、ローマ皇帝の歴史の中でもかなり重要な改定を行った)、ルートヴィヒは着実にローマ皇帝というものを強固なものにした。ただしこうしてやや乱暴に事を進めてきた彼も1346年、ルクセンブルク家のカール4世が対立国王に選出されてしまう事態となって廃位された上、彼と戦う直前に死亡することになるのだが。
 話を巻き戻し、フリードリヒが囚われている頃に戻る。
囚われの身の中でフリードリヒは和解策を講じるも、血気盛んな弟たち(=もちろん特にレオポルト)の戦意はなかなか下火にならず、説得には骨を折ったという。兄の幽閉によって急遽ただ一人で家の中心に据えられたレオポルトはフランス王に近付いたりして事の解決を図り、ヨハンネス22世(※3)がハプスブルク家とルクセンブルク家(=当家に反抗してルードヴィヒのほうを推挙していた)の両家の仲介を図りもした。こうした動きもフリードリヒの解放に繋がっている。
 1325年にルートヴィヒとフリードリヒは共同統治権の契約を交わし、一応の決着がここでつくことになる。これによってフリードリヒもローマ王(ドイツ王)を名乗ることになったのである(=これによってローマ王(ドイツ王)としては「フリードリヒ三世」と称されることになる。ただしほとんど名ばかりの共同統治だったといえる)。
ところがこれにて解決というわけでもなく、選帝侯たちはこれを認めなかったり(一時はルードヴィヒが辞退しようとしたが、いろいろあってヨハンネス22世も皇帝位をそもそもドイツに与える気持ちが失せていたので認めなかったり)、この後もハプスブルク家は係争を起こして弱体化するばかりだったりもした。この中でレオポルトは1326年時点で死去し、また、1330年にはフリードリヒもオーストリアのグーテンシュタイン城(※5)で死去し、自らが建てたマウエルバッハのカルトゥジオ会修道院に埋葬された(※6)。いよいよ明確に完全なる和解がハプスブルク家の兄弟たち(アルブレヒトとオットー)とルートヴィヒの間で成立したのはこの1330年のことである(※7)。
 フリードリヒの後は家の中心の座は弟のアルブレヒトが継いでおり(=アルブレヒト2世となる。一応、オットーとの共同統治である)、彼は「賢公」とも呼ばれることになることからもうかがえるように、弟オットー(=「陽気公」)と特筆すべき確執なども経たり何だりはしていたが、相変わらずの危機的状況にある家の中で往々にして反戦的で平和的な政治を行い、家臣たちにも愛され、以降長くハプスブルク家は皇帝権からは遠ざかるが着実に目標を達成して積み上げていく道を選び、相変わらずいろいろなものへの対応に追われながらも数々の偉業を残した人物だった。拡大しようとするスイス誓約同盟絡みの対処や数々の災害対応もあったが、ペストの流行なども彼の時代にあたることを挙げておくだけでもその苦労は察するにあまりあるものだろう。後のハプスブルク家のメインストリームといえる血筋を築くのもこのアルプレヒト2世の血筋になる(※これはフリードリヒの子供が病弱だったなどの理由による)。……等々、フリードリヒ美王以降のハプスブルク家史もあまりにも語るべきポイントや魅力的なポイントは多いのだが、このアルブレヒト2世に関することも含め、こうして必要最低限の記述にのみに留め、以降は省略する。
 父アルプレヒトの暗殺からミュードルフの戦いでの敗北に至るまでの間にフリードリヒたちの世代のハプスブルク家は徐々に支配地を東方へと追いやられていったともいえるし、尚且つ、ハプスブルク家がオーストリアにはっきりと基盤を置くことになる過程を経たともいえる点においてもこの時代の当家における彼らの活躍は重要なものなのである(※完全に西方を手放したわけではなく、いろいろしている)。以降、政治や教会に関することもオーストリアが中心になっていく。オーストリアを活動拠点としたフリードリヒはハプスブルク家にとってオーストリアを故郷といえるものにまで築いたその最初の人と言えるわけである(※いよいよその定着に至るのはアルブレヒト2世の長男ルドルフ4世の時代)。のちに「オーストリア家」と書いてハプスブルク家を指すことになるその原点に立っているとも言えるのだから、やはり、この時代のハプスブルク家を生きた彼もその兄弟たちも、ハプスブルク家史(ないし世界史という大枠でも)にとってかなり重要な人物だったのである。

 時代背景の説明はここまでにして、この伝説では、フリードリヒが解放されるまでの間にレオポルトが悪魔と契約をしようとしたこと、思いがけずこうした悪魔との縁が断ち切られてなんだかんだ自力で兄を救い出したことが語られている。こうした伝説が生まれるに至った発端は不明ながら、「レオポルトという人は悪魔を介してでも兄を救おうとした弟だった」という認識(そして思わず十字を切ったフリードリヒに見られるように、キリスト教徒としての糾弾の意図はないのだろう)が語り手の中にあったのかなあと私は感じた次第である。または、悪魔を使ってでも手段を選ばない冷たさといった印象があったのかもしれないが、とはいえ、悪魔に対してしっかりと「ohn allen Schaden(拙訳:何らの損傷や欠陥をすることなく)」兄を連れて来ることを念押ししている描写があることからも、やはりこの兄弟間にある相手を大事に思っている気持ちが伝説の中にまで汲まれているのではないかなあとは一読み手としては感じもした。

 

※1 前年1313年にヴィッテルスバッハ家の後継者争いにハンガリーと同盟を組み介入した上、ハプスブルクはルードヴィヒに敗北している。この敗北もあってハインリヒ七世の次の皇帝位をめぐる争い(=フリードリヒとルードヴィヒの争い)が複雑化したというのもある。こうした両家の関係はまずこうしたものの前にアルブレヒト1世がヴィッテルスバッハ家の政治に介入していたり、当時のバイエルンなどの状況など長きにわたってあらゆる政治的思惑などが折り重なってできているものであるため、ここではあくまでもその一端を書き留めているだけである。

 

※2 声を大にして補足しておくが、フリードリヒ2世以来ドイツ国王(=神聖ローマ皇帝)直轄領として認められていたわけで、ハプスブルクが当地の統治権および代官権をもって管理していたのは至極正当なことなのである。峠の開通以来にわかに一帯が繁栄し、三邦は自立心を刺激されて当家への反抗に至り、単に自由や権利を主張するのみならず、周辺の修道院なども(特にシュヴィーツなどはかなり暴力的な手段で)攻撃するようになった。それが良い・悪いなどとはとても私が断じれることでもないし、これがなければ現在のスイスのあり方も全く違ってきたということは充分にいろいろなパターンでもって想像できるところではあるのでそこについては何も言わないし肯定も否定もしないし、そもそもそんなんしたらお前なんなんとは自分でも思うので在るがままで左様でござるかなのではあるが、一方的に虐げられていたとかそんなことは全くないとは言ってもいいくらいの関係ではあったとだけは書いておく。あくまでお互いの利益の食い違いから争いは発生しているという、どちらにも各々の理由や背景があり、どちらにとっても自分たちにこそ正義があると言えるという話であったのである。
私は昔からいろいろなところでこの辺りの主張は再三繰り返しているが、『狼の口』はこうした複雑さを無視して簡潔にまとめ、盟約者団たちによる下剋上めいた反抗とその落着をテーマにして描いているもので、特にシラーの『ウィリアム・テル』の延長線上にこの作品を置き、一つの伝説といった立ち位置でこの作品を形作っているのである。だから、決して歴史的事実に基づいた歴史漫画といったものではない。むしろ広く歴史的事実として受け入れられていただけの古いイメージに忠実に従ってスイスの建国神話を描いている作品なのである。こうした作品の根っこにあるスイスのイメージというともっとつらつらと書きたいことはあるが、端的に言えばこうなるのである。極端に性格付けられた支配者側と、やはり極端に性格付けられた森林三邦を通して、大衆たちが自立・自由を勝ち取るというものを描こうとしている作品なのであると私は理解している(※ただし、あの作品が結局何を目指していたのかは考えれば考えるほどに曖昧さが浮かび上がってきて私には正直よく分かってこなくもなるのだが、取りあえずまとめるとこのようにいえるのだろう)。そしてそれを現在のスイスのある意味で自己責任社会の極致的なあり方にある現状に(多分、好意的な眼差しでもって)このお話を届かせてもいるわけである。

 

※3 参考にした『オーストリア史』(※書誌情報は以下の「参考文献」の項目を参照)には「教皇ヨハネス8世」とあるが明らかに誤記かと思われる。仮にこの時代の対立教皇の名を挙げているのだとしてもそういった人物はいないはずである。

 

※4 これに関するフリードリヒ美王に関しては好意的な伝承が残されているという。以下、『ハプスブルク家──ヨーロッパの一王朝の歴史』(※書誌情報は以下の「参考文献」の項目を参照)内で紹介されているものを引用しておく。繰り返しておくが、あくまでも「伝承」である。こうした伝承が後述する19世紀におけるルードヴィヒの再評価でも重視されることになった。

 ハプスブルク家の帝国支配の断念が持つ意味の重大さは、おそらく同時代の人々にも構成の人々にも深い印象を刻したのであろう。それゆえにこそこの断念は、フリードリヒの騎士的忠誠心を高揚することによって伝承の中でも埋め合わせをつけられているのである。彼は捕囚中にルードヴィヒと交わした約束を固く守った〔筆者註:王位を断念してルートヴィヒに譲る代わりに帝国封土をフリードリヒに渡すこと。これによって帝国統治権を有することの許可をもらうことになる〕。そしてそれに対する弟たちの同意を得られなかった時、あらゆる懇願をも振り切って、自らの意志に従って再び捕囚の身に戻った。このような誠実さに感動したルードヴィヒは彼に共同統治を申し出、彼を兄弟と見なし机と床をさえ共にしたというのである。たしかにこのような伝説は事の成行きに依拠したものではあるが、ここでは国王ルードヴィヒに捕虜と和解する気を起こさせるに至った困難な状況がもちろん顧慮されていない。しかしひとたび誓ったからには固く約束を守って再び捕囚の身に戻った──教皇でさえがこの約束は幽囚中になされたものであるから履行するまでもない、としたにもかかわらず──君主の物語は、ハプスブルクの伝統にとって結局のところ政治的な意味をも持っていた。というのは、君主と下臣、封土授与者と受容者間の関係はまさに相互の忠誠、相互の信頼という原理に基づいているからである。

アーダム・ヴァントルツカ『ハプスブルク家──ヨーロッパの一王朝の歴史』(※詳細は下記の参考文献一覧)(pp.83-84)

 

※5 グーテンシュタイン(Gutenstein)城:
現在の言い方で書けば、オーストリア国内ニーダーエスターライヒ州Wiener Neustadt-Land地区内にある同名の町内に位置している(Google map(最終アクセス日:2021/11/08))。
ここでは本件に関係する箇所の周辺事項についてのみざっくりまとめておくに留める。以下は基本的に参考資料1(※下記にて詳細)の記述をまとめたもので、他の資料から補足する場合はその都度明記しておく。
この城が史料上で最初に言及されるようになったのは1200年頃で、この当時はBabenberger家の支配下にあった。その後、同家のフリードリヒ2世(1230-1246)が城を拡張し、要塞化を進めたとされる。13世紀末頃からハプスブルク家の所有に移り(※参考資料2によると、この間にも所有や管理に関し、いくつかの手を介している。また、ハプスブルク家の所有に移ったのは1276年頃とする。これは参考資料3では1282年頃とする。当時一帯を支配していたボヘミアのオットカールにハプスブルクのルドルフが勝利することで支配権が移ったが、しばらく放置状態が続いていたようである)、以降は主権者の住居として用いられることが多くなる。まず、14世紀初頭に同家のフリードリヒ美王がここでの滞在を好むようになり、1321年には城の麓に市場権を与え、終の棲家としてこの城や周辺環境を調えた(※参考資料3によると、この時に城内(?)に礼拝堂を増設している)。そして1330年に彼はここで亡くなる。その後は所有権をめぐりさまざまな論争等が起きたりもしながら概ねハプスブルク家の所有は守られていたが、16世紀に他家に売却される形で所有が移されてからはハプスブルクとこの城と町の関係は直接的なものは遠ざかったまま現代に至る。(※参考資料3によると、時の経過と共にこの城の戦略的な重要性も薄れてゆき、1784年を境にいよいよそれがはっきりとなり廃墟化。1892年になって美化協会によって再び手入れされるようになり、以降、現在に至るまで保存活動が続けられている。)

参考資料:

1. WEBサイト『Gedächtnis des Landes』-「Gutenstein」(最終アクセス日:2021/11/08))

2. WEBサイト『Wikipedia(ドイツ語版)』

2-1. 「Gutenstein (Niederösterreich)」(最終アクセス日:2021/11/08)(※町について)
2-2. 「Burgruine Gutenstein」(最終アクセス日:2021/11/08)(※城について)

3. WEBサイト『MARKTGEMEINDE GUTENSTEIN』(最終アクセス日:2021/11/08)(※グーテンシュタイン公式サイト)

3-1. 「Burgruine Gutenstein」(最終アクセス日:2021/11/08)(※城の歴史について) 3-2. 「Geschichte」(最終アクセス日:2021/11/08)(※町全体の歴史について)

 

※6 マウエルバッハ(Mauerbach)のカルトゥジオ会修道院:
まず、マウエルバッハは現在の言い方で書けば、オーストリア国内ニーダーエスターライヒ州St. Pölten-Land地区内にある町である(Google map(最終アクセス日:2021/11/08))。カルトゥジオ会修道院はこの町の中心近くに建っている(Google map(最終アクセス日:2021/11/08))。
ここでも関係する箇所の周辺のみをざっくりまとめておくに留める。この町は長く文化の中心地の一つとして栄えた場所としての特徴があったことが真っ先にあげられるようである。また、そのことにも関連するのではあるが、先述のとおり1313年にフリードリヒ美王がここにカルトゥジオ会修道院を建てたのも重要なものである。カルトゥジオ会というのはキリスト教関連の会派の中でも特徴的な要素を持つものなのだが(そしてそれをフリードリヒ美王が支援したということも特筆に値するのだろうが)、これについての説明はここでは省く。ただ、興味深いものなので良かったら調べてみてほしい次第である(あとこの場を借りて好きな作品の宣伝をすることになるが、カルトゥジオ会に属する修道士が主人公の映画『The Confessions(邦題:修道士は沈黙する)』(2016年、イタリア・フランス合作)は指折りで私が好きな映画の一つなのでオススメしておく……)。1330年、亡くなったフリードリヒ美王はこの修道院に埋葬される。カルトゥジオ会の特徴もあって修道士の家は辺りに散在した状態ながらも、保有している土地は豊かであったようである。中世後期を全盛期とし、国内で最も繁栄した修道院の一つにもなった他、修道士たちはウィーン大学とも密に接触していたりと、こうしたあらましからもうかがえるように、ウィーン国内でも歴史的にも重要な宗教関連施設の一つであったといえるだろう。故に、この地に修道院を建てたフリードリヒの存在は重要なものだとも言えよう。
16世紀以降はオスマン帝国の侵略や宗教改革の波に煽られて損害を受け、1782年にはハプスブルク家のヨーゼフ2世によってカルトゥジオ会修道院は廃止されてしまう。この時にフリードリヒの遺体もウィーンにあるシュテファン大聖堂へと移された。このカルトゥジオ会修道院の地下には現在、かつてこの地にフリードリヒ美王が埋葬されていたことを示す盾があるようである。修道院関連施設も次々に破壊され、当時の教区の様子をしのべるものは現在ではほとんど残っていないのが現状である。

参考資料:
1. WEBサイト『Gedächtnis des Landes』-「Mauerbach」(最終アクセス日:2021/11/08))

 

※7 共同統治権を得ても(特にレオポルトの死後は)フリードリヒは名ばかりの王位にある程度でしかなく、彼も目立った動きを起こすことはなかった。晩年にはこの城で隠遁生活といえるような状態で余生を送っていた。そのため、実質的に皇帝権をふるっていたのはルードヴィヒだけだったし、上記で引用した伝承からもうかがえるように、そういう取り決めがなされてもいたようである。

 

参考文献
※以下、楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンク。

トラウスニッツ(Trausnitz)城について

 フリードリヒ美王が囚われた城の名はトラウスニッツだと伝わっており、この話の中でもそうした話が汲まれた上で成り立っている(※言葉を変えて一応念押しして書いておくが、「そのように伝わっている」程度のものである可能性があるようである。とはいえ、一般に膾炙してそういうものとして理解されてはいる)。この城は現在の言い方で書けば、ドイツ国内北東部にあるバイエルン州東部オーバープファルツ行政管区内シュヴァンドルフ郡にある同名(=トラウスニッツ)の自治体内に位置している。

 以降は、横着なことをしてしまうが、ドイツ語版『Wikipedia』の「Burg Trausnitz im Tal(拙訳:谷にあるトラウスニッツ城)」の項目から必要な箇所のみをまとめるという形を取る。『Wikipedia』の特徴として参考資料とするには適当ではないのは当然のことではあるのだが、日本語文献で参考にできるようなものが私には見つけられなかったため(また、外国語文献をその整合性も理解しつつ広く調査した上でこうして他人に向けて発表するだけの能力が現在の私にはないため)、尚且つ、参考とできるもので本件に関する範囲で一番まとまっていたのが『Wikipedia』であったため、このような手段を取る。
 まず、現在はSie zählt zu den schönsten und besterhaltenen Burgen in Bayern.(拙訳:バイエルンの中でも最も美しく、尚且つ保存状態も良好であるといえる)といった場所であるらしい。ただし、17世紀の火事によって大きく被害が出ている(※WEBサイト『Burg Trausnitz』曰く、その他にも改修工事なども行われているため、14世紀当時の面影を辿るのはやや困難かと思われる)。現在はホステルとして利用されているらしく、なんとフリードリヒ美王と(まあ大体かなりいろいろを無視した上で大雑把に言って)ほぼ同じ空間に滞在しまくれるという恩恵に被れるという状態にあるらしい。やったぜ。
補足しておくと、別途下記の「参考資料」一覧に上げた各種WEBサイトを参照してほしいが、ホステルに泊まらずとも城の見学なども可能なようである。通年行われているのかは不明。少なくとも冬期に行われているものに関するWEBサイトを参考にあげておく。こうしたものを見る限りでは、他にも城はいろいろと一般向けに解放されているようである。
 1261年には既に文書上でこの城についての記述が見られるようになっていたが、ヴィッテルスバッハ家が所有するようになったのは1280年頃からとされる。ミュールドルフの戦い(1322年)の後、フリードリヒはここに2年以上(28カ月とされる)投獄されたという。『Wikipedia』曰く、この投獄事件によってこの城はBerühmt wurde(拙訳:有名である)とのことである。
 1305年の時点でヴィッテルスバッハ家はVitztumにこの城を任せていたため、囚われたフリードリヒの世話はこのVitztumが行ったようである(※1)。

 

 また当該『Wikipedia』のページ内の「Burgfestspiele Trausnitz(拙訳:トラウスニッツ城での演劇フェスタ)」の項目も本記事に密に関係する内容を含むため、取りあげておく。かなり大まかになるが、大体以下のようなことが書かれている。
 曰く、フリードリヒ美王がこの城に投獄されていたことに関する祭を催し、そのメインイベントとして1926年にこれに関する劇(『Friedrich der Schöne von Österreich und Ludwig der Bayer in Trausnitz(拙訳:トラウスニッツにおけるオーストリアのフリードリヒ美王とバイエルンのルートヴィヒ)』)が上演されたとある。脚本はミュンヘンで教師をしていたFritz Hacker氏によって書かれて派手に行われたようであるが、翌1927年に再演されてからは長く忘れられたという。
その後、1980年代になってからこのBurgfestspieleに関する団体があらためて設立されてくだんの劇(だと思う)が1992年に再び再演されるに至ったが、1997年には『Gefangen in Trausnitz(拙訳:トラウスニッツに囚われて)』(Peter Klewitz/脚本)という新しい作品が書き下ろされ、これの公演をおこなった。以降は特に目立った動向はない。
 というわけで、なんとフリードリヒとルートヴィヒが主役として登場する劇作品がこの世には存在するのである。

 

 これらの劇のリブレットの書誌情報へのリンクを挙げておく。Google booksに掲載のもので簡単に済ませる。著作権切れではないと思うので、多分、現在、ネット上で閲覧することは不可能かと思われる。

 

 余談だが、上記の劇作品以外のもので似たようなものを私は数年前時点でたまたま本文を先に入手しており、「何がどうなって劇作品になってるんだ?」と不思議に思いつつも幾年もいたずらに経過させるがままにしていたのだが、今回、本記事に関するまとめ作業を行う過程でこの『Wikipedia』の記事を目にして、そういうのもあるのだなと腑に落ちたという経緯があったりする。ただ、こちらが入手したそのリブレットに関しては1837年の発行であったり、もちろん著者なども異なってはいるので、何であるのかは不明なままである。ご存じの方がおられたらぜひご連絡ください。(※2 調べが付いている範囲で多少の詳細についてもここで説明しておく。ついでにこうしたフリードリヒとルードヴィヒの作品が作られるようになった背景などの周辺情報についても簡単に触れておく。脚注に追いやってしまっているが本記事の本題にも関わる範囲なので要参照されたい
このリブレットについてはフラクトゥールを解読する作業が真っ先にくるのもあり後回しにし続けていたのだが、近々ついに読んでみるつもりではいる。この詳細を知る前からたまたまなんとなくそうしようと思っていた矢先のことだったため、二重に驚きもした次第である。このリブレットに関してもうまく読み下すことができて発表することができそうなら記事化するかと思う。

この『Ludwig der Bayer und Friedrich der Schöne(拙訳:バイエルンのルードヴィヒ公とフリードリヒ美公)』(Karl W. Vogt/著)は以下から本文が閲覧できる。複数のテキストがネット上でも閲覧可能であると思われるが、取りあえず一つを挙げるに留める。

 

 他にも取りあえずもう一作のみ、関連作品をあげておく。こうしたフリードリヒとルードヴィヒを扱った作品はかなり多岐にわたって存在はすることは判明しているので、そういった一覧についてはやはり本項目末尾の「※2」に挙げている論文を参照してほしい。取りあえず、ここで紹介するのは以下のものである。

『Ludwig der Baier(拙訳:バイエルンのルードヴィヒ)』(Ludwig Uhland/著)は以下から本文が閲覧できる。複数のテキストがネット上でも閲覧可能であると思われるが、取りあえず一つを挙げるに留める。

  • 『Die Heinrich-Heine-Universität Düsseldorf(HHU)』-「UNIVERSITÄTS UND LANDESBIBLIOTHEK」-「Digital collection」-「Ludwig der Baier」(最終アクセス日:2021/11/11)

ルートヴィヒ・ウーラント(1787-1862)はドイツで活躍した有名な詩人であり中世文学研究家である。前半生は詩人として名を上げ、後半生は研究に集中した人物だった。民主主義者として当時の大きな潮流であったドイツ統一を志しもした。生前にはかなりの人気を得ていたが、死後はその名声は低迷する。ここで紹介したように戯曲も書きはしたが評判は良くなかったようである。彼のこの作品も多分、上記および「※2」で述べてきたようなものの流れを汲んで書かれたものであろう。(※3 このリブレットの内容に触れている論文も挙げておく)
このリブレットについても読んでみたい気持ちはあるが、いつになるかは上記のものに輪をかけて我がことながら不明。

 

 

脚注

※1 古い資料になるが、『Die Kunstdenkmäler von Oberpfalz und Regensburg(Die Kunstdenkmäler von Bayern, no. 2.)』(※詳細は下記の参考文献一覧参照)では以下のように書かれている。参考までに挙げておく。文章中に適宜挙げられている参考資料の記述は「〔…〕」を用いて省く。ついでに関連個所を引いているのでやや長くなる。

Am 21. August 1305 verliehen die Herzoge Rudolf und Ludwig die halbe Burg 》Trausniht《 ihrem Vitztum Weichnand (Weigel, Weigein) und seinen Erben〔…〕. Neben dem Vitztum, der nicht adeligen Geschlechtes war, begegnen die Zenger als Mitbesitzer〔…〕.
Vitztum Weichnand stand bei Ludwig dem Bayer in hohem Ansehen. So kam es, dass er ihm nach der Schlacht bei Mühldorf seinen gefangenen Gegner, Friedrifh den Schönen von Österreich, zue Verwahrung auf dem Schlosse Trausnitz übergab〔…〕.28 Monate verbrachte Friedrich in ritterlicher Haft auf der weltfernen Burg, um die seitdem Sage und Dichtung ihre verklärenden Schleier weben〔…〕.

p.119

要は、1305年8月21日からVitztum Weichnandという貴族の血筋にはない人物が城の管理を任されることになったということがここからうかがえる。また、この人物がルートヴィヒから高く評価されていたということも書かれているし、ここでもやはり彼が直接フリードリヒの世話に関わっていたということが触れられている。
もののついでに引用文の1行目でルートヴィヒと名前を並べているルドルフについても簡潔に説明するが、この人物はヴィッテルスバッハ家の流れを汲むプファルツ(Pfalz)家に属する彼の兄ルドルフ1世(1274-1319)のことであろう。弟のルートヴィヒとは共同統治する関係にあったが、兄弟仲は良くなかった。それで内戦を繰り返し行いもしたのだが、これにハプスブルクも積極的に関わって上記(※「この話の歴史的背景について」の項目)に既に書いたようなことにもなってしまうわけである。その後もこのルドルフはルートヴィヒに反発、ハプスブルクのフリードリヒ美王のほうを支持してその選出に一役買っていたりと、本件に関してもかなり密に関わってくる人物である。共同統治者として協力関係をずっと保ち続けてきたフリードリヒとレオポルトに対し、このルドルフとルートヴィヒは対立関係が続いていたことから、この二つの兄弟はある種のネガポジとして同時代を生き、また互いに密に関係を持っていたといえるだろうと私はそう捉える次第である。(※ルドルフ1世の説明は『Wikipedia(ドイツ語版)』-「Rudolf I. (Pfalz)(最終アクセス日:2021/11/09)」から簡単にまとめるに留めた)

 

※2 ほぼ目を通せていない現状なのだが、WEB上で閲覧可能でかなり参考になる関連資料があったので、その中で本件に直接的に関係する箇所をここで軽く紹介しておく。以下ではその資料の詳細とそこから分かったことについてのまとめを書いておく。
19世紀におけるルードヴィヒの再評価と影響
ナポレオンの時代前後にその影響がバイエルンにも及ぶことによって不安定な状況が生まれて自国の歴史が重視されることになった結果、14世紀においてバイエルンを地盤にして特に目立って邁進していた(結果敵を作って破滅に至ったのだが)土地の人であるところのルードヴィヒが再評価されるに至り、彼は19世紀には突如として有名な人物となったようである。つまり、19世紀当時の国民意識の発露や「バイエルン人」としての意識の発露、要はナショナリズムに巻き込まれる形でルードヴィヒは注目されたわけである。こうしたものから推測するに、詳細不明なリブレットであるKarl W. Vogtによるものも多分、こうした流れの上で成立したものだったのだろう。また、本著の中ではトラウスニッツでの劇に関することにもページ数が多く割かれている様子である。さらに推測するに、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』に収録されているフリードリヒとレオポルトの伝説もこうした流行というか時代背景があって語られていたのではないかと私はちょっと予測する次第である。
『Ludwig der Bayer und Friedrich der Schöne(拙訳:バイエルンのルードヴィヒ公とフリードリヒ美公)』(Karl W. Vogt/著)について
また、『Ludwig der Bayer und Friedrich der Schöne(拙訳:バイエルンのルードヴィヒ公とフリードリヒ美公)』(Karl W. Vogt/著)についての情報もこの論文に記載されていたため、そこから分かったことをこの場でまとめておく。
頭のほうに列記されている「Literatur(作品)」一覧のp.cxにて当作品の名前が挙げられている(つまりここに無数に挙げられた分だけ少なくともルードヴィヒのほうに関する何らかの作品があることが判明しているというわけでもある。ここからもフリードリヒに関連するものも多く見受けられる)。曰く、VOGT, Karl Wilhelm, Ludwig der Bayer und Friedrich der Schöne.Historisch dramatische Dichtung in vier Abtheilungen, München 1837.(拙訳:VOGT, Karl Wilhelm著『バイエルンのルードヴィヒ公とフリードリヒ美公』、歴史を扱った戯曲作品、全4幕。ミュンヘンにて1837年に発表)とまとめられている。
本書からは本件に関することに直接つながってくる記述も多いように見える。この論文からだけでも19世紀ごろにおけるルードヴィヒ再評価と合わせてフリードリヒ美王が登場する作品類が数々生まれていたらしいこともうかがい知られるためである。そのため、興味があれば各々きちんとこの論文に目を通すことをお勧めする。
取りあえずここではVogt氏の作品に関する記述がある箇所で特に重要そうなところを文章の前後関係を無視した上、ななめ読みの拾い読みになってしまうが、軽くまとめておく。ちなみに本書ではFritz Hacker氏のほうならばいくつか記述があるらしいことも調べられた(こちらは概要程度のものは既に上記にまとめられたのもあるため、ここでは省略する)。
p.244の「Wirft~」の段落から注目できる。ざっくりこの段落に書かれていることをまとめておく。ここではバイエルンの舞台芸術についての説明が本筋としてされているようなのであるが、18世紀の終わり頃に1325年頃のルードヴィヒとフリードリヒの話(=投獄から共同統治に至るまでの歴史や伝承)が注目され、銅版画などのイラストに描かれてきたことが説明されている。バイエルンの芸術家であるJoseph Wintergerstの活躍もこうした動きの中では重要で、彼の主要作品の一つにはこうした2人の王に関するものがある。1818年にシュトゥットガルトでWintergerstはLudwig Uhlandと幾度か交流を重ね、これによってUhlandがルードヴィヒに関する劇作品を作るきっかけになったのではとも推測されるとのことである。
2人の王が和解した話を美徳ないし模範とすべきモデル(=ルードヴィヒの寛大さ)であると捉えてバイエルン皇太子のマクシミリアンも気に入っており、(彼の代から時代は少し下るが、)1832年にはHohenschwangau城の中にある一続きの絵の中に主題として描かせたとのことである。尚且つ、城に訪問した人たちへの啓発としてもこの絵は機能していたようである。 そしてこうした受容の中で1836年にVogtの例の戯曲は書かれたのだが、それにはHohenschwangau城の絵の影響が見られるという。1855~60年には有名な歴史画家Karl von Pilotyが同主題の絵を描くが、この絵にも上記の城の絵の影響が見られるという。
1890年にはバイエルンの王子Luitpoldが、上述したフリードリヒ囚われの地であるトラウスニッツの礼拝堂(?)の祭壇でこの主題の絵画(画家名:Sebastian Staudhamer)を寄贈した。
まとめは以上である。マクシミリアンとはヴィッテルスバッハ家の血筋にある初代バイエルン王(=ナポレオン戦争の影響でバイエルンは王国化した)のマクシミリアン1世のことだろう(※選帝侯としてはマクシミリアン4世である)。1806年から在位していることからもうかがえるように、ちょうどナポレオン前後の大激動の時代によって国内が混乱していた時期の最中に生きた人物である。この時代は上述したように国内ではナショナリズムが芽生えて歴史が再認識されていた時代であった(※時代は一つほどずれるが、1848年の革命の中で大きな問題となったドイツ統一問題もこうしたナショナリズムに関わったと思う)。また、道徳的模範としてルードヴィヒとフリードリヒの物語を受け入れていたことからも垣間見えるように、彼はこの時代のフランスを中心にヨーロッパ各地に旋風を起こしていた啓蒙思想に共鳴していた人物だったとまとめられるだろう。この時代のヨーロッパにおけるモラル意識やその他の思想面というのはそれだけでももろもろを見るだけでも言うまでもなく(敢えて書いておくが)超基本的な大きなトピックにあるのだが(そうしてそういったものも過去からの連綿としたものによってそこに至っているのだからやはり語り出すにもキリがないのだが)、そこにルードヴィヒとセットになる形でフリードリヒ美王(またその周辺)もこの歴史の渦に巻き込まれて注目されていたということは個人的にかなり面白く思う点である。
以上から推定するに、19世紀はじめごろにバイエルンは激動の時代となり、そうしていよいよナショナリズムが啓発される中で14世紀に生きた国内の偉人としてルードヴィヒが再認識されるに至り、また啓蒙思想などの影響下にあるモラル重視といった向きもそれに重なってフリードリヒとルードヴィヒを取り巻く歴史ないし物語が好意的に広く認知されることになったのであろうという言葉で取りあえずまとめられるだろうかと思う。そしてその中で『ドイツ伝説集』に取りあげられたような伝説やその他の絵画、戯曲作品等が生まれていくことになったのでもあろう。

  • Murr, K. B. 2008. Das Mittelalter in der Moderne: die öffentliche Erinnerung an Kaiser Ludwig den Bayern im Königreich Bayern. Germany: Beck.

 

※3 ウーラントについての説明は『集英社世界文学大事典』の「ウーラント ルートヴィヒ」の項目から簡単にまとめるに留めた。また、本作を含むウーラントの戯曲について論じている日本語論文がWEB上で公開されていたため、それを以下に挙げておく。

 

参考資料

  • WEBサイト『Wikipedia(ドイツ語版)』-「Burg Trausnitz im Tal」の項目(最終アクセス日:2021/11/04)
  • WEBサイト『Rund 450 DJH Jugendherbergen in Deutschland entdecken』-「Mittelalterliches Burgidyll in Trausnitz」(最終アクセス日:2021/11/05)(※トラウスニッツ城のホステルに関する情報)
  • WEBサイト『Burg Trausnitz』(最終アクセス日:2021/11/05)(※トラウスニッツ城の公式情報発信サイト。この公式サイトのコンテンツにはこの城に関するまとめも見られるため、そのページも以下に挙げておく。)
    • Entstehungsgeschichte(※歴史に関するページ)」(最終アクセス日:2021/11/05)
    • Virtueller Rundgang (Stand 2012)(※城内はバーチャルツアーで彷徨えるようになっている)」(最終アクセス日:2021/11/05)
    • Rundgang(※城内マップ)」(最終アクセス日:2021/11/05)
  • WEBサイト『WINTERLUST』-「Winterlust Burg Trausnitz」(最終アクセス日:2021/11/05)(※冬期のトラウスニッツ城見学について)
  • Mader,Felix. 1910. Die Kunstdenkmäler von Oberpfalz und Regensburg. Die Kunstdenkmäler von Bayern, no. 2. München: Oldenbourg.

本文(原文・翻訳)

※原文の引用源:WEBサイト『Zeno.org』内「503. Herzog Friedrich und Leopold von Österreich」(最終アクセス日:2021/10/16)
出典は以下とのこと:Jacob und Wilhelm Grimm: Deutsche Sagen. Zwei Bände in einem Band. München [1965], S. 475-476.

原文

 Da König Friedrich in der Gewalt Ludwig des Bayern gefangen lag auf einer Feste, genannt Trausnitz 1), kam ein wohlgelehrter Mann ein zu Herzog Leopold von Östreich (des Gefangenen Bruder) und sprach: »Ich will Gut nehmen und den Teufel beschwören und zwingen, daß er muß Euern Bruder, König Friedrich, aus der Gefängnis her zu Euch bringen.« Also gingen die zwei, Herzog Leopold und der Meister, in die Kammer; da trieb der Meister seine Kunst, und kam der Teufel zu ihnen in eines Pilgrims Weise und ward geheißen, daß er König Friedrich brächte ohn allen Schaden. Der Teufel antwortete, er wolle das wohl tun, wo ihm der König folgen würde. Also fuhr der Teufel weg, kam zu Friedrich nach Trausnitz und sprach:»Sitze her auf mich, so will ich dich bringen ohne Schaden zu deinem Bruder.« Der König sagte: »Wer bist du?« Der Teufel versetzte und sprach: »Frage nicht danach; willst du aus der Gefängnis kommen, so tue, das ich dich heiße.« Da ward dem Könige und denen, die sein hüteten, grauen und machten Kreuze vor sich. Da verschwand der Teufel.

 

 Danach tät Herzog Leopold dem König Ludwig also weh mit Kriege, daß er mußte König Friedrich aus dem Gefängnis lassen. Doch mußte er schwören und verbürgen, König Ludwig fürder nicht zu irren an dem Reiche.

 

Fußnoten
1 Als der Gefangene hineingeführt wurde und diesen Namen aussprechen hörte, rief er aus: »Jawohl, Trausnicht (Druwesnit), ich habe sein je nicht getraut, daß ich so sollte dareingebracht worden sein.«

翻訳文

※以下の拙訳では、読みやすいように適宜こちらで改行を行っている。また、〔〕で括ったものは訳者による補足である。

 

 フリードリヒ王がバイエルンのルートヴィヒによって捕らわれてある城に留置され、その支配下にあった時のことである。その城はトラウスニッツ 1) と名付けられていた。
〔或る日(※1)〕、十分な学識を持った一人の男がオーストリアのレオポルト公(捕らわれたフリードリヒ王とは兄弟関係にある)の下へとやって来て、このように話したのである。
「私に妙案があります。悪魔を呼び出し、やらせればよいのです。つまり、悪魔めに御身の兄弟、フリードリヒ王を、牢獄から出してこちらの御身のもとへと連れてくるように命じればよいのです。」
そうしてこの二人、レオポルト公と大学者(※2)とは、小部屋(※3)の中へと移動した。そこでこの大学者が急いで自身の褒められぬ術を為すと、一人の聖地巡礼者風の装いをした悪魔が彼らの前に現れ、そして命じられたのである。つまり悪魔は、何らの損傷や欠陥をすることなく(※4)フリードリヒ王を運び届けるようにと言われたのである。
悪魔は答えた。その王が従ってくれるならば、その願いは完璧に果たせるだろうと。
そうして悪魔は飛ぶように去り、トラウスニッツを目指してフリードリヒのいる所へと向かうと、〔辿り着いた先にいたフリードリヒに対し(※5)〕口を開いた。「こっちに来て俺の上に乗っかれ。そうすれば俺はおまえを何一つ損なうことなしにおまえの兄弟のもとへ運ぶことができるだろう。」
この王〔=フリードリヒ王〕は言った。「おまえは何者なのだ?」
悪魔は言葉を返すべく口を開いた。「質問はなしだぜ。おまえはこの監獄の外に行くことが叶うだろうし、そうなるようにするさ。そのために俺はおまえに命じているのさ。」
それでも王は躊躇って(※6)相手に用心すると、ゾッとなって十字を切った。すると悪魔はこの場から姿を消してしまった。

 その後、レオポルト公は結局、ルートヴィッヒ王との戦いに打ち勝ち、フリードリヒ王を牢獄の外へと出させたのであった。しかし〔その時にレオポルト公とフリードリヒ王は〕誓約を交わし、これを保証せねばならなかった。つまり、ルートヴィッヒ王に対し、これから先は王国を脅かす(※7)ことはしてはならぬのだと。

脚注〔※訳者註:原文に付属している脚注〕
1) 「Trausnitz」は、この囚人〔=王〕が捕らえられた際に連れて行かれた場所の名前として伝えられたもので、曰く、彼は〔その名を聞くと〕外へ向かってこのように叫んだ。「ヤヴォール〔=たしかに〕、Trausnicht (Druwesnit)(※8)、私はこのことを信じられないのだから。つまり、私がこうしてこの〔牢の〕中に送りこまれたことを」

脚注
※1 補足的に意訳。

※2 博識な者の意。「Meister」と表現されている。他にも「マイスター、師、先生、支配者」等々の意味がある。桜沢正勝・鍛辺睦久の訳では「魔術師」とされている。

※3 「Kammer」。普通に「部屋」を指すのにも用いられるが、特に、「暖炉などもない比較的小さな部屋、物置部屋」などを指す。

※4 「ohn allen Schaden」。「何らの損傷や欠陥をすることなく」はやや言葉を重ねて訳した。要は、ここでレオポルト公と大学者は、悪魔が「フリードリヒ王をどのような形であれ運んで来ればよい」というような解釈をしないように念を押して命令をしているのである。

※5 補足的に意訳。

※6 補足的に意訳。本来は「denen」が書かれている。ここまでに出てきたはずの人物や事象を指す言葉であるが、特にこの場には悪魔とフリードリヒ以外の存在は書かれていないはずなので、「ここでは王が躊躇っていることを繰り返されている」というように拙訳では理解して書いた。ただし桜沢正勝・鍛辺睦久の訳ではここは王と見張りの者たちは身の毛のよだつ〔後略〕(p.191)となっており、「見張りの者たち」となっている。

※7 「irren」はここでは「脅かす」としたが、「惑わす、困らせる、思い違いをする、判断を誤る」といった意味の言葉である。

※8 よく分からない語句だった。「悲しみのない」「結ばれることのない」かと思ったが、桜沢正勝・鍛辺睦久の訳では思いもかけぬこと(p.192)と訳されている。余談だが、実際にはこの城がトラウスニッツ城と呼ばれるようになったのはフリードリヒ美王が囚われていた時代をさらに下ってからのことであるようだ。(参考:『Burg Trausnitz』-「Entstehungsgeschichte(※歴史に関するページ)」(最終アクセス日:2021/11/05))

『ドイツ伝説集』に収録されているその他の関連作品一覧

「特に『狼の口』に関連できるだろう伝説」という範囲で絞って列挙するに留めている。今回ここでは挙げなかったが、他にもスイスに関するものや悪魔に関する伝説など(それこそ「悪魔の橋」系の話を風車や教会といったものに語り変えたようなものなど)の「全くの無関係」とは言えないようなものも多数この『ドイツ伝説集』には収録されている。そのため、今回の列挙から外したものの中には「これは挙げてもいいのでは……?」というものもいくつもある。そうしたものも系譜としては深く関連するものではあるので、結局のところ、「こうしたものに興味があるのであればこの本を読んでほしい」ということに尽きることは主張しておく。ウーリの人間がやや悪魔的に描かれている第288話「境界を決める駆けっこ」などは個人的にはすごくオススメだったりする。つまるところとにかく強調しておきたいのは、以下に挙げるのは最低限選抜した程度のものでしかないということである。
※日本語タイトルは以下に挙げるものに関しては桜沢正勝・鍛治哲郎訳のもの(上記の「『ドイツ伝説集』の原文(ドイツ語)、日本語訳の紹介」の項目参照)による。

 

一覧

  • 第186話「Die Sachsenhäuser Brücke zu Frankfurt(フランクフルトのザクセンホイザー橋)」
  • 第337話「Teufelsbrücke(悪魔橋)」
  • 第517話「Der Bund in Rütli(リュートリの盟約)」
  • 第518話「Wilhelm Tell(ヴィルヘルム・テル)」